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#BlackLivesMatter と人種差別問題の理解を深めるために(モチダヨウヘイさんへの返答)

先日公開したこちらの私のnoteに対し:

モチダヨウヘイさんという方からこのようなコメントをいただきました:

持田さんはこのコメントをするために私の記事を読んだ当日にnoteにアカウントを作り、これを執筆され公開されたのですから、よほど強く私の「小沢批判文」に憤りを感じられたのだろうと察します。研究者の立場から発言されたということは、ご自身の研究領域を侵害されたとお感じになったということでしょう。

私もすぐに読ませていただき、かなり攻撃的にも取れる表現にはやや面食らいましたが、非常に重要な指摘が含まれておりましたので、真摯にお答えしたいと思います。

持田さんの指摘された最も重要なポイントは以下の二点だと考えます。

①人種という概念そのものの捉え方の問題と、この概念を再生産することへの懸念

②「無知」を非難することは言論の自由と政治参加を妨げることになるという懸念

これらについては私の元のnoteでは説明されていません。特に①については、小沢健二さんのツイート内容の問題点とも深く関わることなので、以下に私の見解を説明します。

①人種という概念、その「再生産」について

持田さんはコメントの中で、いかに「人種」という概念が科学的根拠のない差別的で擬似的なものであるかの説明にかなりの字数を割き、過去の文献などに触れ詳しく説明された上で、その概念そのものを問題視すべきであると述べています。

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この「人種」という概念のご説明には全く同意です。私もそのように理解しています。ただし、持田さんは私が「人種」という概念が歴史的にどう形成されてきたかを知らずに(=無知で)使っているという先入観に基づき、私が無思慮・無批判に「白人」、「黒人」という人種カテゴリーを受け入れていると決めつけた上で、それを繰り返し使用し、それがひいては差別行為を再生産(=逆に差別を助長)しかねないと批判されています。

それは違います。人種という概念そのものがフィクションであるということは人種差別問題を扱う上で、基本中の基本の知識です。知っていながら「あえて」使っています。そうすることで再生産・強化してしまうリスクが伴うことも承知していますが、それは人種カテゴリーを肯定しているからでは決してありません

ではなぜあえて使うのかというと、第一に、それは当事者(被差別者)たちが選んだ言葉だからです。私が勝手につけたのではありません。周知の通り、#BlackLivesMatter (以下BLM)はアメリカにおけるアフリカ系アメリカ人が、2013年の警官による同胞の殺害事件を受けて、自分たちが不正な社会構造によって抑圧され、制度上も不当な扱いを受け、命まで奪われ続けていると訴えたことから始まった運動です。創始者の黒人女性たちは、これを#AfricanAmericanLivesMatter と呼ぶこともできたはずです(ちょっと長ったらしいですが)。でもあえて「Black」という言葉を選んだのには重要な理由があります。それは語呂がいいとか覚えやすいとかそんな単純なことではありません。

もともと「black(黒人)」という呼び方は、現実には豊かな多様性を持つアフリカの人々を、ヨーロッパ人の目線から「黒い人間」とひとくくりにし、彼らはそういう「人種」であるとして人格も人間としての尊厳も歴史も剥奪し、奴隷制を正当化した忌まわしき言葉です。肌の色の濃淡で人を区別する「black」、「white」、「brown」、「yellow」、「red」などの表現は、少なくとも英語圏ではここ30年ほどは一般的にも「政治的に適切(PC)」ではない言葉とされ、代わりに(アメリカの場合ですと)「African American」、「caucasian」、「Hispanic」、「Asian」、「native American」と、地理的なルーツを示す言葉に差し替えられました。これは、持田さんのおっしゃっている、「人種」という概念を再生産することなく、概念そのものを否定することから差別をなくしていこうという考え方に依拠してのことです。音楽ライターである私も、「ブラック・ミュージック」という呼び方や、「黒人アーティスト」といった書き方は控えるようにしていました。

こうした流れによって、非アフリカ系の人がアフリカ系の人たちを公然と「black」と呼ぶことは少なくなりました。それに伴い、「人種差別問題」は「エスニック・グループ」、「移民」、「経済格差」、「犯罪」の問題であるとして語られるようになったのです。教養のある人ほど、このようにボキャブラリーを更新し、人種(race)を語ることをタブーにしていきました。人種という言葉を使うことがすでに差別的である、という認識が政治家や官僚、企業幹部やマスコミに浸透していきました。これはアメリカだけでなく、ヨーロッパ、その他オーストラリアやカナダなどの英語圏も同じです。英語が公用語のシンガポールでも同じではないでしょうか。そして、これは良いことに思えました。

しかし、「人種」主義に根ざした言葉をボキャブラリーから消し去ることには、重大な落とし穴がありました。カラーブラインド(ネス)という状況を生み出したのです。(Colorblindとは、「色盲」という意味ですが、日本ではあまり浸透していない概念を直訳してネガティブな意味で使用してしまうと視覚異常のある方に対して差別的な表現になってしまうのでカタカナ表記のままにしてあるのだと思います。)これが何かは、こちらの記事に的確に説明されています:

つまり、「人種」、「黒人」、「白人」という言葉が使われなくなっただけで、差別の現状は全く変わっていなかった。むしろ、人種問題として取り上げられることがなくなったのを隠れ蓑にし、より見えにくい形で奴隷制のように維持され強化ていたのです。この事実を暴いているのがドキュメンタリー映画『13th -憲法修正第13条』(2016年)であり、そのベースとなったMichelle Alexanderによる著作『The New Jim Crow: Mass Incarceration in the Age of Colorblindness』(2010年)です。(他にもたくさんの論文や参考書籍はあると思いますが。)

結果として招いていたのは、実際に差別にさらされることのない特権を持つ層には問題や被害があることが「見えない」という状況でした。現実には「犯罪者を取り締まる」という名目で警察権力が肥大し、「人種プロファイリング」による人権侵害や激しい暴力が横行し(その結果としてジョージ・フロイド氏の事件も起こった)、人口分布に対して明らかに不均衡な黒人の大量収監が「合法的に」行われていた。当然被差別者である黒人やネイティブ・アメリカンはこれを身近に日々体験しているわけですから、ずっと見えているにも関わらず、当事者以外には「見えない(blind)」という状況を作り出してしまった訳です。

この事実を可視化する抗議運動がBLMであり、スローガンの意味です。黒人であるがゆえに受けている差別を、見えるようにするために、あえて「Black」という言葉を使っているのです。現実に起こっている人種差別問題を再び議論のテーブルに乗せるために、現状最も効果的だったのが、「黒人」の存在を再確認させることだったのです。

これは、少なくとも欧米社会では人種概念を否定するアプローチでは差別を無くすことができなかった、むしろ見えなくしたことで助長してしまったという限界を示しています。そこに人種差別問題の複雑さと根深さが現れています。

要するに、BLMは人種概念そのものの問題性の議論はとうに通過した先に起こっている、現在進行形の事象です。「人種」を肯定しているわけではありません。それと戦うための戦略です。それを押し付けられ抑圧されてきた人たちが、解体・廃絶すべき対象を可視化するために用いているのです。私が非常に関心を持っているのは、BLMは奴隷時代から蓄積されてきた黒人解放運動の知識と経験の蓄積によって進化した、社会運動戦略の「最新形」の一つであると捉えているからです。

話を元の本題である小沢健二氏のツイートに戻すと、彼も「人種」という概念そのものを問題視すべきであり、それによって起こる事象を「人種主義」と訳すべきだとという主張を度々しています(この主張の是非はすでに前の投稿で触れたのでここではしません)。

しかし、このようなツイートもしています。

ですから、小沢氏は「人種概念の否定」アプローチの限界も認識されていると思われます。それ以上のことは限られたツイートからは分かりませんが、揺れが見られ、ご自身の中でもこの矛盾を整理できていないのではないかと推測します。

持田さんが「そもそもなぜ差別が起こるのか」という問題意識から人種・民族・ネーションといった概念の19〜20世紀の形成過程を研究していらっしゃるのに対し、私は「今現在起こっている差別被害をどうなくすか」という問題意識で現行の出来事を考察(そして個人的に連帯)しています。今目の前で起こっていることはまだ本に書かれていません。歴史の本を500冊読んでも決して知りえないことです。当然ながら、歴史研究の重要性を軽視しているわけではありません。これまでの歴史を踏まえないと、目の前で起こっていることの意味や意義も評価することができないからです。

また、当然BLMの「最新形戦略」がすべての差別問題に適用できるわけではありません。BLMが「正しい」やり方であるかも「成功する」のかも分かりません。でも、これほどこの運動が世界の注目を集め、日本人同士でもこのような議論をするまで知らしめるに至った効果的な戦略であることは誰の目にも明らかです。この彼らの戦略が、他の「人種」や「民族」の差別問題解決にも応用できるのではないかという観点から、非常に注目されています。

アメリカの黒人にとっては緊急事態であり、自らの命を守るために今現在最も即効性がある戦略を取る以外の選択肢はない、ということも言えると思います。(アメリカの黒人以外の差別問題は緊急性が低いという意味ではありません。)どれほどの緊急事態かは、活動家のタミカ・マロリーのこのミネアポリスでのスピーチを見ていただければ伝わるでしょう。そして、ここで彼女が黒人だけではなく、先住民のことにも繰り返し触れていることにもご注目ください。

第二に、音楽ライターとして言及しておきたいことがあります。それは「Black」を肯定する文化の伝統についてです。

これはジェームス・ブラウンの1968年の曲です(キング牧師が暗殺されたのと同じ年です)。多くの方が聴いたことがあるかと思います。先ほど述べたように、「black」は元々忌まわしい言葉でしたが、一方で、ならばその言葉の意味を肯定的なものに変えてやろう、黒人であることに誇りを持とうという当事者たちの文化的な試みはずっと続けられてきました。

ヒップホップ・カルチャーに触れている方はよくご存知かと思いますが、黒人に対する侮蔑語であった「Nワード」を、ラッパーなどのストリートの若者たちが仲間内でお互いを呼び合う際にあえて使うようになったのも、言葉そのものの意味を変え、所有(own)してしまおうという自己肯定のプロセスの一つであったと言えます。(ただし、Nワードは非黒人が使うのは絶対NGです!)性的マイノリティーが積極的に自分たちを「クイア」と呼び始めたのも同様のプロセスです。

以上の理由から、現在当事者は自己肯定の意味を込めて「Black」という言葉を積極的に使用しています。これを受けて、数週間前から英文の表記では黒人を肯定する意味で使用する場合は頭文字を大文字にした「Black」、単に色を形容する言葉は小文字で「black」と表記されるようになりました。主要な英語媒体はすべてそれに対応していると思います。非黒人も「ブラックネス」を肯定することが、人種差別撲滅運動に連帯を示すしぐさとなったのです。

自らの肌の色を肯定することでそれをアイデンティティとし、「私は黒人でそれが誇りだ」と言う人たちから、「黒人」という言葉を取り上げる権利が誰にあるでしょうか?当事者たちがそれを捨てる日が来るまで、私はそれを尊重します。

このような経緯で、私は「Black」の対訳として「黒人」という言葉を使用し、またその概念に触れずして現実の差別問題を解決することはできないとの認識のから「人種」という言葉を使用しています。人種という概念がフィクションであり、かつ差別的であることを知らないからではありません。

②「無知」の罪

持田さんは私の批判文に強い反発をお持ちになられたことを、このように述べています(ALMは #AllLivesMatter というスローガンのこと):

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ずいぶんと曲解していらっしゃいます。

ALMスローガンを主張・投稿している人は、レイシストか全く無知の人だ(この時点で全くの無知であることはすでに罪である)

これ、つまり「無知な人は人種問題について議論するな」ということですよね。

え!?そうですか!?答えは「ノー」です。全く違います。ですので、この解釈を前提としたそれ以降のご批判はすべて的外れです。

「無知は罪」は、差別問題に取り組んでいらっしゃる方の共通認識(もはやスローガン)かと思っておりましたが、私の書き方が不十分なせいで誤解を招いたようですので、補足します。ここで私が言う「無知」は、人種差別問題、特にALMというスローガンというコンテクストにおいてです。

差別の最大の根元は無知(からくる恐怖心)です。差別問題に全く無知でい続けること、知る努力もしないことは、差別に加担していることになります。これは私が思いつきで言っていることではなく、これまで数え切れない知識人や活動家が発してきたメッセージです。黒人差別に限らず、すべての差別に共通することですので、持田さんがお読みになった500冊以上の文献の中でも触れられていたはずです。相手(被差別者)に対する無理解、誤解、偏見、思い込み、先入観から差別は始まります。

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この世に心からの無知と良心的な愚かさほど危険なものはない 

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無知が権力と手を組むとき、正義にとって最も凶暴な敵となる(拙訳)

こと人種差別問題を議論する上では無知が有害になり得ると述べているのあって、「無知な人は人種問題について議論するな」などとはどこにも書いておりません。また、無知を絶対に肯定すべきではありません。

この部分にそれほど反発をお持ちになったということは、持田さんが「ALMがレイシストのスローガンである」ということを認識していらっしゃらなかったので、当然レイシストではない持田さんは「無知」と言われているとお受け取りになったからではないでしょうか。

続いて:

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この部分でも、持田さんは「無知(ignorance)= 知識の欠如(lack of knowledge)」と「知性(intelligence)の欠如」を混同されています。

「知性無きものは政治議論への参加さえ許さない」と私がどこに書きましたか?でっち上げないでください。これも先入観による曲解です。むしろ、小沢氏が人種問題についての意識を喚起しようとしている部分は評価している、音楽家にもガンガン発信して欲しい、と書いています。少し前に、政治的ビジョンを持って活動する東京のミュージシャンを評価する記事も書きました:

ただ、今回の小沢氏のようにフォロワーがたくさんいる方が、知識・理解が中途半端なまま伝え方を誤ればセンシティブな問題だけに有害な結果を招きかねないので、しっかり理解してそれを正確に伝える努力をして誤解をなくしていきましょう、というのがそもそもの私の批判文の趣旨です。

言うまでもなく、言論の自由も政治参加も、誰にでも保障されるべきです。(こんなことも書かなければご理解頂けないでしょうか?)

持田さんのご指摘により、なぜ「人種」、「黒人」という言葉を使うのか、「無知は罪」の意味をきちんと説明させていただく機会になりましたので、コメントを頂いたことには感謝します。


持田さんの投稿文の問題点と私からの指摘

ここからは、私から持田さんの投稿にある問題点を指摘させていただきます。

まず第一にこちら:

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持田さん、これは研究者にあるまじき大問題の差別発言ですよ。びっくりしました。

何が問題かお分かりにならないのであれば、もう少し差別問題の本をお読みになった方がいいとだけお伝えしておきます。

第二に:

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持田さん、これも驚きましたよ。歴史をご専門にしていらっしゃるのに、アメリカの黒人問題は「国内問題」だとお考えですか?持田さん自身、いかにヨーロッパ人が「人種」という概念を17世紀から築き上げ、それを奴隷制度や植民地支配を正当化したのか、長々と書いていらっしゃるじゃないですか。「世界中の多様な人種問題」の根元は同じです。この問題が「ユーロ・セントリズム的に語られる」のは、そもそも「人種」、そしてそれによる差別がヨーロッパを起源としているからです。(「アメリカの国内問題を絶対的な規準かつ公平な正義として喧伝」しているからではありません。)

第三に:

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持田さん、これは完全に持田さんのリサーチ不足、アンテナの感度の問題ですよ。批判される前に、せめてGoogle検索くらいはしてみてください。

https://www.washingtonpost.com/world/middle_east/black-lives-matter-protests-spark-debate-over-racism-in-the-arab-world/2020/07/07/83234c5e-b7ab-11ea-9a1d-d3db1cbe07ce_story.html

第四に:

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持田さんの「宿題」をやらずに投稿させて頂きました。それは私が現在持ち合わせている知識で十分対応可能だからです。この文章によって持田さんがしていらっしゃることは:

・到底無理なことが明らかな「宿題」を課すことによって、私からの批判を封じている

・無知を許容し、「開かれた言論」を主張しながら、私個人(だけ)に対してはご自分と同レベルの「読書量」(しかもご自分の専門分野の)を強要している

・ご自分は私に「宿題」を課せる立場にあり、私は従うべき立場にあると思い込んでいる

これらは、私のことをご自分より格下であると見なさなければできないことです。ご自分の優位性を誇示する行為、いわゆる典型的なマウンティングです。私の知識や教養は絶対にご自身のそれに及ばないという決めつけと先入観をお持ちだからです。

このようにも書かれています:

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持田さんはそれを読んだ本の数や学位、職種、(性別も関係しているかもしれません)で判断されるようです。私は「専門家ではない」と書きましたが、勉強していないわけではありません。持田さんが講師を務めていらっしゃる慶應義塾大学の法学部政治学科、大学院法学研究科の修士課程を修了しています。学部の卒論のテーマは主にルワンダの虐殺を事例にした民族紛争についてで、修士論文のテーマはエスニシティのアイデンティティ・ポリティクスです。ですから「人種」概念が虚構であることもよく存じておりますし、持田さんの「こころの師匠」であるというベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』は私の論文の核でもありました。真偽をお確かめになりたかったら慶應の図書館か論文データベースでご検索ください。2つの論文の参考文献を合わせれば200冊くらいにはなると思います。

持田さんにぜひ考えていただきたいことがあります。宿題ではありません。お願いです:

・なぜ私のたった一つの投稿を見ただけで、私が「勉強していない」と決めつけたのか?そして専門家ではない私(だけ)が人を啓蒙したり批判すべきではないのか?

・なぜ専門家でない小沢健二氏の人種問題や関連用語に関する誤解を招くようなツイート(小沢氏も「人種」、「黒人」、「白人」という言葉を用いている)は一切批判しないのか

そして、こちらが持田さんの「結論」でした:

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私は持田さんにやさしくしていただかなくても一向に構いませんが、私の自由で開かれた言論も認められるべきです。ご自身の「結論」とは真逆のことを、私だけにしていらっしゃることにお気づきになられ、そしてなぜなのかをお考えになった方がよろしいかと思います。それを認識されることが、きっと持田さんの研究にも役立つはずです。

私は建設的な批判や指摘を繰り返すことによって知識と理解が深まり、広がっていくと信じております。ですので、持田さんに限らず、至らない部分はいくらでも批判してください。

以上です。




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