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「愛されて育った」という原体験

最近、Twitterを見ていてこんな記事を見つけました。


恵まれていたからこそ、平等な機会を得られる世界をつくりたい


「恵まれているからこそ」こんな社会にしたい、これは私がもっと広まったらいいな(広めたい)と思っています。

人が何かの活動を始めるとき、そこにはそれを始める理由、つまり「原体験」とされるものがある。



原体験は辛くないといけないの?


でも原体験って何か、「悲しかった経験」(を他の人は同じ経験しないように) とか「辛さを乗り越えた経験」(次の人はもっと楽に進めるように) という、ネガティブな感情が起点になっているものが多いと感じるのは私だけでしょうか。


実は、これは私も当てはまるところがあります。長らく自分のチームの話し合いに悩んだ経験があり、他の人がそういう同じような悩みを持つのは嫌だなと思うところから動くことが自分もある。


自分もネガティブな経験をバネにするところがあることを認めつつも、本当は「恵まれていた、愛されていた、受け取った経験」を循環させる流れがいいなと思っているし、年齢を重ねた私は、そろそろそういう段階にきたなと感じています。


私たちの社会って、本当にネガティブな経験から動かないといけないほど欠けていて不足の社会なのでしょうか。私はそうは思いません。


私が生きていきたいのは、満たされた社会

少なくとも先人の方たちが「こんな社会にしたい」と願って作り上げてくれた社会を今、生きている。


これまでの社会で力を尽くした方々が「働きたい女性もいて、その力が社会に活かされますように」と願って礎を築いてくれたからこそ、完全に男女平等とは言えないかもしれませんが、私は今、社会で働くことが出来ています。


「気軽にコーヒーでも飲めてホッと出来る空間があるといいよね」と願ってくれた人がいたからこそ、私は今、スタバでこの記事を書くことが出来ています。


今の社会を形作る、全ての製品やサービスが、誰かが愛を込めてくれた仕事の結晶だと思うと、私はとても満たされた幸せな社会に生きているのではないでしょうか。


問いかけを変えたい

「原体験と言えば辛いもの」という発想を生み出す一助となっているのはひとえに、社会からの問いかけだと思います。


特に就職活動をするとき、必ず「乗り越えた経験」を問われませんでしたか。今の社会は、多くの場面で「頑張った経験」「乗り越えた経験」を問われる社会だなぁと思っています。

壁を乗り越えた経験は、それはそれで自分なりの選択を明確にするために必要な経験です。ただ、私は誰かを雇うなら、または誰かと働くなら「受け取り上手」な人と過ごしたい。


「笑顔で話を聞いていた」ことや「時間を守ったこと」や「仕事でしたちょっとした工夫」に気づいて、そこに潜んでいる愛情を受け止めてくれる人。


「あなたはいつどんな時に周りの愛情を受けとりましたか」とか、「あなたの人生において、最大の支えはなんでしょうか」とか。「これまでの人生、何を受け取って生きてきましたか」と問われる社会の方が、ずっと一人一人が自分の中に「恵まれた、愛された経験」を大切にできる社会ではないでしょうか。


あなたの原体験は何ですか。

今、あなたがしている活動は、何があなたをその活動へ導いたのでしょうか。


私はかつて、自分の原体験はチームで成果を出すために悩んだことや、1人で奮闘することに疲れてしまったことが私を今の道に導いた要因の一つだと思っていました。

でもそれだけではなかったのです。


私は、どんな自分でも明日も一緒に生きていける家族の元に生まれ、率直な自分をそのまま生きさせてくれる愛情を受けて育ち、だからこそありのままの自分でいられる社会がいいなと思ったのです。


誰かと共に、一緒に悩み、物事を作り上げられる日々を過ごせるくらい、恵まれているからこそ、より良いつながりを生むコミュニケーションがチームで出来たらいいなと思ったのです。


愛されて育ったという原体験


それが私の源でした。


私は、不足や欠けていることを嘆くエネルギーよりも、満たされて有り余る気持ちが湧き出るエネルギーの方が好きなので、これからは自分の原体験として「愛されている、恵まれているという原体験」も大切にしていきたいと思います。


今、あなたの人生は誰のどんな支えがありますか。これまで気づかなかった周りからの愛情があるとしたら、それはどんなものでしょう?

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