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メルセデスが好きなんだ(第1話)


友人のマッシモ・デルボの家を訪れた。彼はイタリアのクラッックカー専門のジャーナリストとして、コンクールデレガンスの審査員やオークションのアドバイザー、各メディアに寄稿するなど三面六臂の活躍をしている。

クラシックカーをこよなく愛するマッシモ、特にメルセデスに愛情を注いでいる彼自身のクルマ愛情物語を語ってもらった。

マッシモの幼少時代​

ミラノ在住のデルボ家の中には誰1人クルマに興味を持つ人はいなかったと言う。そんな中で育ったマッシモは変わり者。
3歳の頃には既にクルマのエンジン音を聞いただけで車種名を当てるという特技があったそうだ。

1969年生まれの彼、もの心がついた頃、デルボ家にはFiat 500L/1969 ブルーと解体寸前のボロボロのMercedes-Benz 220D/8 1971ブルーがあったと言う。

6才の時に両親が離婚し、父親がクルマを持って家を出て行ってから、母はFiat 500Lを乗り続けた。未だ14才のマッシモは、家の車庫ではペダル踏みの練習、そして時々誰も居ない辺鄙な場所で母を横に乗せ500のハンドルを握り運転をしていたと言う。このFiat500Lが彼のクルマ人生の初試乗となった。
イタリアではよく盗難話を聞くが、1983年、なんとデルボ家のFiat500Lも盗まれてしまった。そして次にデルボ家にやって来たのはFiat Panda 45/ 1983 白。

メルセデスに心が奪われた

青春時代真っ只中の16才の頃、マッシモは友人と一緒にディスコに行った。未だ高校生なので帰りは親の迎えが必須の時。その日、ディスコから出ると友人の父親のブロンズメタリックの Mercedes-Benz 380 SE W126 (1982)が2人を待っていた。それまでマッシモにとってのクルマというのは、ボロボロの Mercedes-Benzと小さいFiat 500, Fiat Pandaの世界だったが、目の前に現れた大きなクルマはマッシモが今まで持っていたクルマのイメージをガラリと変えてしまった。車内はゆったりとくつろげるスペースで、シートはグレイのビロードで心地よい、V8のサウンドはマッシモの心に響いて来た。なんて凄い世界なんだろう。ディスコよりも今まで味わったことのない別世界の感覚に惚れ惚れした。こんなクルマがあったなんて!これがメルセデスか、素晴らしい!

別世界を垣間見た後も、デルボ家は相変わらず母、兄のマルコ、マッシモの3人とPandaで暮らしていた。

初めての買った自分のクルマ、1万3000円で手に入れたメルセデス

*Mercedes-Benz 200 D W123(1979) グレイ 1988 年に購入

 
19才になり、紙関連のセールスの仕事をするようになり、自分のクルマが必要になったマッシモ。でもお金が無い・・・。どうしようか。「ディーゼルでしかも安いクルマ」を探していた時に、解体寸前のグレイのMercedes-Benz 200 D W123 (1979) を発見。市場への食鶏処理運搬車として使用していたというクルマだった。後部座席には鳥の血の跡が残っていたそうだがマッシモには外観や内装などの美しさは関係なかった。重要なのは頑丈なエンジン!走れば良い。そう70年代のメルセデスのこのディーゼルエンジンは「頑丈」で有名だった。
初めからメルセデスを探していたわけでは無いのだけど、「総合的に考えると行き着くところは、やはりメルセデスだった」らしい。

そして何よりも超低価格の200、000 リラ!(今でいう100ユーロ、約1万3000円)オンボロとはいえ、自分のクルマを持つことができた。故障したら自分で直せば良い。聞くとマッシモは16才からお小遣い稼ぎのため近所の修理工場でアルバイトをしていたという。クルママニアのマッシモはそこでしっかりメカニック技術を習得していたので、そんじょそこらの故障は自力で解決していたそうだ。

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そのメルセデスはマッシモと兄の共有で約2年で7、8万キロ走ったという。「見かけは酷いけれどエンジンが頑丈なこのクルマは、長旅には最高だった。兄はスペインまでこのクルマで行ったんだ。27,000 リラ(約1800円)で600キロも走れるんだ。本当に経済的なクルマだったよ。55馬力なんで税金も安いしね、イタリアの当時のタクシーは殆どこのメルセデスだったよ。中が広くて頑丈で燃費が良い。兄のマルコはクルマを貸してくれたお礼にと、メルセデスの星形のエンブレムをプレゼントしてくれた。路上駐車しているので、星が盗まれて無かったんだよ。」

そう言えばイタリアで古いメルセデスをよく見かけたのを思い出した。こちらでは壊れないクルマ、燃費が良いクルマといいうことで中古のディーゼルのメルセデスが人気があった。

さて、ここからのマッシモのコレクター人生が始まる。
以下のクルマは今でもマッシモの車庫の中並んでいる。

初めて買ったクルマらしいクルマ​

*Mercedes-Benz 240 TD S123, (1985 )白 1990年6月13日に購入。

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ある日、マルコ(兄)がいつものオンボロメルセデスを運転していた時、交差点でランチャデルタと衝突事故を起こしてしまった。ランチャは運転不可能な状態に。メルセデスの方は何とかクルマを動かすことができ、家まで自走。過失はランチャだったので、この事故で保険が少し下りたという。

しかし、あまりにも外観がひどくなって来たのでそろそろ次のクルマを、と思っていた。お小遣い稼ぎにFiat500を安く見つけは修理して販売していたマッシモ、少しお金も溜まり始めた頃だった。

既にメルセデス愛が目覚めていたマッシモ。やっぱり次もメルセデス。中古車情報には常に目を光らせ、知人には中古のメルセデスのディーゼルのステーションワゴンを探してる、と聞き回っていた。けれどもなかなか希望のものが見つからない。ある時友人が、「それだったらミラノのメルセデスのディーラーに行ったら良いじゃないか」と勧めてくれた。 「僕が持っている少しの資金ではディーラーなんて恐れ多くて入れないよ」と答えたマッシモ。「安心しろ、新型が出ると前の型は価格が落ちるんだ。ディーラーにも何台か売れずに眠っている前型があるはずだ」ということで意を決してディーラーに行ってみることに。 

その頃、Mercedes-Benz S124型が出たばかりで、地下の倉庫に前型の5台のS123が並んでいた。見た瞬間、奥にあった白のメルセデスがマッシモの心に飛び込んできた。あのクルマは僕のだ! 担当者に値段を聞くと、15,500,000リラ(約100万円)という。無理! 無理無理!
ちなみに当時新車のFiat Uno 60 SLが15,000,000リラ
で購入できた時代。家に帰って貯金通帳を見てみる。マッシモが使える金額はどう考えても10,000,000リラ(約65万円)だった。足りない・・・。ディーラーに戻り、値段交渉に戻ると、「1,000,000リラ(約6,5万円)の手付金を置けば、お金ができてから取りに来れば良い」との返事。リクエストが多くある中、自分を選んでくれたのはメルセデス愛が通じたからだろう、と。

家族にその話をすると、皆が協力してくれることになった。母が「私もこのクルマ良いと思うわ」と2,000,000リラ(約13万円)、兄も「僕も良いと思う」と2,000,000リラ(約13万円)、祖母も「このクルマで私を湖に連れて行ってよね」と1,000,000リラ(6,5万円)を提供してくれた。デルボ家の家族愛。家族全員の協力を得て、一気に15,000,000リラ(97,5万円)になった。でも未だ500,000リラ(約3,25万円)足りない。しかも譲渡手続きに700,000(約4,5万円)リラがかかる。となると1,200リラ(約7,8万円)か・・・。足りない・・・。

よし、この金額でもう一度メルセデスに交渉しよう! マッシモは価格交渉戦闘態勢で勇んでディーラーに向かった。時は1990年、イタリアでサッカーのワールドカップが開かれている最中だった。6月13日、丁度マッシモがディーラーに足を踏み入れた時、大きなバスが到着した。ディーラーの中はちょっとしたパーティー会場になっていた。なんだろう?
ドイツの選手団がスポンサーであるメルセデスのディーラー見学という時だったのだ。イタリアはサッカー天国。イタリア人にとってサッカーは命、しかも今年は自国でワールドカップが開かれるというのだからイタリア中、大フィーバーだった。しかもその選手が来た、というのでディーラーの中はざわついていた。

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サッカーには全く関心がないマッシモはワールドカップは蚊帳の外だった。

さて、ディーラーに入って来たマッシモを見かけた担当者は「何しに来たんだい」と睨み顔。「例のクルマを買う交渉に来たのです」と答えるマッシモ。「今、忙しいんだ、またディスカウントの話か。一体君はいくら払えるんだい」と担当者。「譲渡手続きを含めて15,000,000リラ(約97,5万円)しか払えない、これ以上は無理なんです。」と交渉を始めるマッシモ。「見ただろう、今日はドイツ選手団が来て忙しいんだよ、セレモニーに行かなくちゃならないんだ。交渉なんてしてられないんだ。 譲渡手続を入れてぴったり15,000,000リラ(約97,5万円)で良いからすぐサインをしてくれ」と、いとも簡単に交渉成立。

クルマは愛しているけれど、サッカーはさっぱり分からないマッシモ。どんな有名サッカー選手が来ようともメルセデスをゲットすることが大重要事だった。マッシモにとってその日は幸運なことにサッカ―音痴だったことが福となった。

「後で知ったんだけど、その担当者はサッカーの大ファンだったんだ。だから選手に会えるぞ!という瞬間にやって来たお金が無い若者の相手などしている時間はなかったんだ。彼にとっては、1,000,000リラ下げようが、2,000,000リラ下げようが、どうでもよかったことだったんだよ。交渉したらもう少し下がっていたもしれないけれどね。でも交渉を続ける時間もなかったんだ。早く、その場を去りたがっていたからね。担当者にとってはサッカー選手に握手してもらう方が重要だったんだ。」

こうして1990年6月13日はマッシモにとって始めてのクルマらしいクルマMercedes-Benz 240 TD S123(1985)をゲットすることが出来た思い出の日となった。

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20年ぶりにあの時の担当者・ファブリッツィオと​

購入記念20周年となった2010年に、Mercedes-Benz 240 TD S123をディーラーまで走らせ、あの時の担当者・ファブリッツィオと一緒に写真を撮ったという。勿論、6月13日はファブリッツィオにとっても忘れられない出来事として心に残っていた。何せ、ドイツチームが目の前に現れた日なのだから!

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メルセデスを介して知りあった2人。 年金生活に入ったファブリッツィオとは今でも連絡を取り合っている仲だという。

続く


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