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[weryfikacja 検証27~35]”複数の初版“ - ノクターン第2版

ノクターン第2版 検証(27~35)

エキエル編ショパン・ナショナル・エディション日本語版ノクターン。第1版は問題が多すぎたため2022年8月に販売停止。2023年2月15日に第2版発行。「今度の第2版は大丈夫なのか?」と多くの方々が知りたがっていらっしゃり、現在検証中です。

「複数の初版」とは?

ノクターン日本語版 第2版第1刷(2023年2月15日発行)には「複数の初版」という言葉が数多くあらわれますが、この訳は適切ではありません。

いったい何が問題なのか。

27.
原資料に関する解説
ノクターン 変ホ長調 作品9の2, 第2小節(右手)

“複数の初版で”

譜例
ポーランド語原文
英訳
アーツ出版、1999年発行
全音 第1版第1刷、2021年11月15日発行
全音 第2版第1刷、2023年2月15日発行

「複数の」とあると私たちは「単数じゃないのね」と理解します。例えば「複数のノクターン」とあった場合、「2~3曲かな、もっとかな」と考えますが、ノクターン全曲とは考えません。

ショパンが出版に出したノクターンは作品9から62までの18曲。「複数のノクターン 」と聞くと私たちは「1曲ではないが全曲でもない」と受け取ります。

ひとつ(単数)ではないが、全部ではない。 「複数の初版」、つまり私たちは「あるひとつの初版だけではないが、初版全部というわけでもない」と受け取るのです。

当時ショパンの作品は(ほとんどの場合)、フランス・ドイツ・イギリスで出版されていました。

こちらは ノクターン 変ホ長調 作品9の2 の原資料/Źródła/Sources の一覧です(上がポーランド語原文、下は英訳)。

原資料の一覧(ポーランド語原文)
原資料の一覧(英訳)

ターン上下の臨時記号は、どの初版にも見られません。

Wf1/FE1
フランス初版第1刷
Wf2/FE2
フランス初版第2刷
Wf3/FE3
フランス初版第3刷
Wf4/EE4
フランス初版第4刷
Wn1/GE1
ドイツ初版
Wn2/GE2
ドイツ初版第2刷
(ドイツ第2版)
(ドイツ第2/3版)
(ドイツ第3/4版)
(ドイツ第3/5版)
(イギリス初版の重刷、1840年)
(イギリス初版の重刷、1856年)
(イギリス初版の重刷、1856-57年頃)
(イギリス初版の重刷、1873年頃)

全ての初版で臨時記号が欠けているのです。

全ての初版で欠けているのだから 「複数の初版で」と書くのはおかしい。 「複数」では読む人は「全ての初版で」とは思わず、 「ひとつではないけれど、全部ではない」と受け取ってしまう。

「複数の」をつけなくても日本語では複数をあらわすことができます。 “「初版では」タイが欠けている”、“ショパンの「バラードは」6拍子(4分の6拍子 または 8分の6拍子)で書かれている” など。 「複数の」初版と書く必要はなく、書くと却って意味がおかしくなります。

監修者の先生によると “「複数の」と訳しているのは(…) 単に名詞の複数形のみが用いられているときです” とのこと。 英訳をご覧になって名詞が複数形であれば 「複数の」という言葉を深く考えずに加えてしまう。 ショパン作品の初版の実際がどうであるか、何も考えが及んでいない。

原文を読んで自然に理解すれば「複数の」という言葉をここで足そうという発想にはならない。 もし原文(および英訳)で何か複数形があらわれる度に「複数の」と訳していたら、日本語として大変におかしなことになります。

例えば「ワルツやマズルカは3拍子」というところをもし「複数のワルツと複数のマズルカは3拍子」と訳されているのを目にしたら、すぐにおかしいと気づくでしょう。

また、「複数の」という言葉がないと単数に受け止められるのでは、という心配はこの場合ありません。単数の場合は「Wf (フランス初版)では」「Wn (ドイツ初版)では」というふうに、原文では具体的に書かれています。


ショパンは弟子カミーユ・デュボワの楽譜(フランス初版)/WfD/FEDで、欠けていたターン上下の臨時記号を補いました。

弟子カミーユ・デュボワの楽譜 WfD への書き込み。
(参考)チェリスト・作曲家でショパンの友人でもあったオーギュスト・フランコムの楽譜(ショパンの没後に出版されたフランス初版第4刷)にも、臨時記号の書き込みがあります。

28.
原資料に関する解説
ノクターン ヘ長調 作品15の1, 第62小節(左手)

“複数の初版で”

こちらも「複数の初版」と訳すのは適切ではありません。 初版すべてを指す時に「複数の初版」とは言いません。

譜例
ポーランド語原文
英訳
あるべき日本語訳
全音 第2版第1刷、2023年2月15日発行

この文脈で pierwsze wydania/the first editions とある時、「複数の初版」と訳そうとは通常考えません。 また、ここで2つの音を「重音」と訳すのは適切ではありません。

原資料の一覧(ポーランド語原文)
原資料の一覧(英訳)
Wf/FE
フランス初版
Wn1/GE1
ドイツ初版
Wa1/EE1
イギリス初版
Wa2/EE2
Wa1 (イギリス初版)の重刷
Wa3/EE3
Wa2 (イギリス初版の重刷)の重刷

左手、2拍目の4分音符は 全ての初版で a-f1 の2音です。 フランス初版は自筆譜に基づき、ドイツ初版とイギリス初版はフランス初版に基づいています。

29.
原資料に関する解説
ノクターン 嬰ヘ長調 作品15の2, 第24~25小節(右手)

“複数の初版で”

こちらも「複数の初版」と訳すのは適切ではありません。

譜例
ポーランド語原文
英訳
あるべき日本語訳
全音 第1版第1刷、2021年11月15日発行
全音 第2版第1刷、2023年2月15日発行
原資料の一覧(ポーランド語原文)
原資料の一覧(英訳)
Wf/FE
フランス初版
Wn1/GE1
ドイツ初版
Wa1/EE1
イギリス初版

全ての初版で段が新しくなり、 第25小節にもあるべきタイ(の終わりの部分)が欠けています。 

イギリス初版の場合、重刷を含め計3種類が挙げられていますが、やはり全てタイの終わりが欠けています。

Wa2/EE2
イギリス初版重刷, 1844年
Wa3/EE3
イギリス初版重刷, 1852年頃(ショパン没後)

30.
原資料に関する解説
ノクターン ト短調 作品15の3, 第57小節(右手)

“複数の初版で”

こちらも「複数の初版」と訳すのは適切ではありません。 

譜例
ポーランド語原文
英訳
あるべき日本語訳
全音 第1版第1刷、2021年11月15日発行
全音 第2版第1刷、2023年2月15日発行
原資料の一覧(ポーランド語原文)
原資料の一覧(英訳)
Wf/FE
フランス初版。 (失われてしまった)自筆譜に基づいています。
es2 を e2 に上げるナチュラルはありません。
Wn1/GE1
ドイツ初版。フランス初版に基づいています。
Wa1/EE1
イギリス初版。こちらもフランス初版に基づいています。
Wa2/EE2
イギリス初版の重刷。
Wa3/EE3
イギリス初版の重刷(Wa2)の重刷。
es2 を e2 に上げるナチュラルはありません。
原資料の一覧にある全ての初版においてナチュラルはないのです。
Wn2/GE2
ドイツ第2版。
es2 を e2 に上げるナチュラルは、ドイツ第2版(1860年頃)で補われました。

31.
原資料に関する解説
ノクターン 嬰ハ短調 作品27の1, 第92~93小節(右手)

“複数の初版で”

原資料の一覧(ポーランド語原文)
原資料の一覧(英語)

mUltimateChopin.com でも初版の情報をこのように示しています:

上からドイツ、フランス、イギリス。 (ポーランド語)
Special thanks: mUltimateChopin.com
 (英語)
Special thanks: mUltimateChopin.com
   Wn1/GE1
ドイツ初版  
タイが欠けています。
Wn2/GE2
ドイツ初版の重刷
Wf/FE
フランス初版  
やはりタイが欠けています。
Wa1/EE1
イギリス初版
Wa2/EE2
Wa1 (イギリス初版)の重刷
Wa3/EE3
Wa2 (イギリス初版の重刷)の重刷
どの初版でもタイが欠けています。
ショパンがタイを補った、弟子カミーユ・デュボワのレッスンの楽譜/WfD/FED

32.
原資料に関する解説
ノクターン 変イ長調 作品32の2, 第28小節(右手)

“複数の初版に反して”

原資料の一覧(ポーランド語原文)
原資料の一覧(英訳)
Wf/FE1
フランス初版
2番目の8分音符は fis1 のみです。
Wn1/GE1
ドイツ初版
Wa1/EE1
イギリス初版第1刷
Wa2/EE2
イギリス初版第2刷

原資料一覧にある全ての初版において 2番目の8分音符は fis1 のみで、f1 は加えられていません。

Wn2/GE2
ドイツ第2版
初版にはなかった f1 が加えられています (2番目の8分音符は f1-fis1 の2音に)。

Wn2は(初版ではなく)第2版です。 全音 第2版第1刷(別の訳者による翻訳)の 「複数の初版に反して、ドイツ第2版では」という訳では 「複数」に入っていない初版と同様(反していない)ということになり、 原文の意味が正しく伝わらない。

もし「ドイツ第2版は複数の初版に反している」のであれば 「複数の初版」以外の初版と同じなのだから、 わざわざ「反している」と表現せずに 「この初版と同様」と書かれるでしょう。 読んでいておかしいと思うはずなのです。

33.
原資料に関する解説
ノクターン 変イ長調 作品32の2, 第28,32,40,44小節(左手)

“複数の初版で”

原資料の一覧(ポーランド語原文)
原資料の一覧(英訳)
Wf/FE
フランス初版
Wn1/GE1
ドイツ初版
Wa1/EE1
イギリス初版第1刷
Wa2/EE2
イギリス初版第2刷

f あるいは fis にかかるタイが第44小節だけなのは、 全ての初版においてであることがわかります。 「複数の初版で」では正しい意味が伝わりません。また「保続する」も誤りです。

34.
原資料に関する解説
ノクターン へ短調 作品55の1
原資料  [A1]および[A2]

“複数の初版の”

数多い「複数の初版」という不適切な訳の中でも特におかしく、 大変に悲しくなってしまったのがこちらです。 1999年の訳(34文字)と2023年の全音第2版(45文字)とでは、 同じ原文であるのに文字数が11字分違う。

初版はフランス、イギリス、ドイツから出ています。 作品55と作品62のノクターンでは、ショパンは自筆譜を3つ用意して各出版社に送りました。

原資料の一覧(ポーランド語原文)
原資料の一覧(英訳)

[A1] はフランス初版のために。
[A2]はイギリスへ。
A3 はドイツへ。

3つの自筆譜 [A1],[A2],A3 のうち 時期的に最も遅い A3 はドイツ初版の基礎になりました。 フランス初版の基礎になった[A1]と、イギリス初版の基礎になった[A2]は失われています。 原文の情報はシンプルです。

全音 第2版の訳は 「複数の初版の製版に用いられた3つの自筆譜」。 読んでも意味がよくわからない。 複数っていくつ?(ふたつ?)  3つの自筆譜を複数の初版のために用いた、つまり 何か難しい複雑なやりかたをしたのでしょうか。

「複数の初版の製版に用いられた3つの自筆譜」では、何だかよくわからないが難しそうなことが書いてある、という印象だけが残ります。 この日本語訳では正しい理解はできません。原文はこうではない。

これは 「フランス初版・イギリス初版・ドイツ初版のための3つの自筆譜」 「初版の基となった3つの自筆譜」です。 「複数の初版の製版に用いられた3つの自筆譜」という訳はあまりにも変です。

3つの国から初版が出るから
3つの自筆譜を用意したのに。

解説にはフランス初版、イギリス初版、ドイツ初版と書かれていますから、 3つの国から出ているという認識が監修者/担当者/訳者にないわけがないのです。 それにもかかわらず このような訳になってしまった。

35.
原資料に関する解説
ノクターン ロ長調 作品62の1, 第83小節(右手)

“複数の自筆譜および初版では”

「複数の自筆譜および初版では」(第2版)、「複数の自筆譜および複数の初版では」(第1版)とあり、どちらも不適切です。

全音 第1版では監修者または担当者によって「自筆譜および初版では」が「複数の自筆譜および複数の初版では、」に、また「ない」が「いっさいない」に変更されました。

原資料の一覧(ポーランド語原文)
原資料の一覧(英訳)

現存する(第83小節を見ることのできる)自筆譜は2種類あります。

A1
これはフランス初版の底本となった自筆譜です。
fis3 の前に何か臨時記号を書いた後に消したのでしょうか。
A3
自筆譜の中で最も時期の遅いものです。 ドイツ初版の底本となりました。
Wf/FE
フランス初版。A1 に基づいています。
fis3 の前に臨時記号はありません。
Wa/EE
イギリス初版。失われた [A2] に基づいています。
こちらも fis3 の前に臨時記号はありません。
Wn/GE
ドイツ初版。 最も時期の遅い自筆譜 A3 に基づいています。
やはり臨時記号はありません。

自筆譜と初版には、fis3 の前の臨時記号はありません。

WfD
ショパンは弟子カミーユ・デュボワのレッスンの楽譜(フランス初版)/WfD/FED に、
このように ♯ を書き加えています。
WfD: Pierwsze wydanie francuskie D
FED: First French edition D
D: Camille Dubois


問題が多すぎて販売停止になった第1版よりも、今回の第2版で「複数の初版」と訳されてしまった(つまり必ず直さなければいけない)箇所はずっと多い。 読んだ人は「複数だから全部じゃないのね」と誤った理解をしてしまう。または何となく「複数?そうなのか」とあやふやなまま終わる。

「どの初版のことか」と考える場合、ひとつなら例えば「Wn ドイツ初版では」、複数の初版であれば「Wf フランス初版(→Wa イギリス初版)では」というように、原文では具体的に書かれています。

この訳では エキエル先生とカミンスキ先生の書いている意味がまっすぐに伝わらない。原文はシンプルに書かれており、本当はすぐに理解できるはずなのです。しかしこの日本語訳では不必要にわかりづらくなっている。

「複数の初版」という訳がおかしいと気づかないのは、原文の文脈を読むことができていないためです。個々の単語を見つめている。そしてショパン作品の初版について基本的な理解が足りていないためです。

Special thanks: mUltimate Chopin, PWM, OCVE

Będę wdzięczna za wsparcie! いただいたサポートはリハビリに、そして演奏活動復帰および再レコーディング準備のために。