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改めて、私の自己紹介①

イカスサロン てらさわゆうこのお話

自己紹介を通して
私を深く知ってもらおうと思い、書きます(❁´◡`❁)



💕これからの人生を、自分らしく!自分を活かす!人生を送るための髪育サポートをしています。

✨あなたには、あなたの美しさがある✨


髪育®サロン イカスサロン 寺澤ゆう子と申します。

髪を育てる『髪育®』を学び、髪が育つ過程が人が育つ過程と似ている部分があると知り、感じ、実感しています。
2023年8月に自分のお店を持ったことをきっかけに自分自身を振り返り、自分を受け入れる素敵な時間を得ています。それを、周りの方々にも実感してほしいと思っています。

1976年9月11日生まれ。
富山県黒部市生地(いくじ)町(海沿いの街・漁師の街) 富山(とみやま)家に誕生(●'◡'●)
木彫刻をしている父、専業主婦の母、二つ上の姉、そして私。
4人家族です。
父は、木彫刻で一家を支えてくれていました。近年は抽象的な造形作品が多いですが、私が生まれた時はまだまだ無名の作家。たまに注文が入る、仏像やらんま(和室の天井付近にある開口部分・透かし彫の装飾)を作り生計を立てていました。生地町の家の頃は、私のミルク代が払うことが出来なく集金のおじさんが来たら、部屋の隅でジッとし居留守を装っていた💦…、と後から聞きました。
私は生地町で過ごした記憶がなく、1歳か2歳くらいで隣の魚津市に引っ越しました。今も実家は魚津市です。作家の父は、海の街のにぎやかなところから、静かな場所で過ごしたい。と思ったらしく、そのころの魚津市の実家の場所は周りが少し高台にあり田んぼだらけで、のどかな場所だったそうです。今は、にぎやかになっていますが。
引っ越した先の真向かいのお宅に、私と3日違いの誕生日のひろ子ちゃんが住んでいました。私は、物心ついたころはすでに横にひろ子ちゃんがいて、だいぶ後まで、誰しも家の近くには、誕生日が近い同級生が住んでいるものだ。と勘違いしているくらい、この偶然でミラクルな出会いを当たり前と思っていました。ひろ子ちゃんは可愛くて活発で。一人っ子だからいつもきれいな洋服を着ていて、ずっと私と一緒にいてくれて💕。姉と三人で三姉妹の様でした。ひろ子ちゃんは、今でもわざわざ富山から新幹線に乗って私のサロンにきてくれるので、2か月に一度は必ず会うもう腐れ縁を通り越して、何なんでしょうか。一言では言い表せない関係です😌

子供のころの思い出は、とにかく外で遊んでいる子供でした。父がスキーが上手かったので冬はスキーへ。夏は海水浴へ。自然いっぱいの中で自然と遊ぶことをしていました。容姿は、いつも真っ黒に焼けてショートカットでよく男の子に間違えられていました。スカートをはくのが嫌で、いつも半パン(笑)。保育園の運動会で、男の子の列に人が足りなくて、先生に男の子のところに並ばされて男の子役をさせられていました(苦笑)今の時代ではありえないですよね😓 その写真も残っているので、鮮明に覚えています。
男の子といえば、父にそっくりな子供でした。きっと父はそれが嬉しかったのか、「自分のお腹から、ゆう子は産まれたんだ!」と、いつも色んな人に冗談を言っていました。最初は、意味が解らないので本当にお父さんのお腹から産まれたと本気で信じていました。その後に、「それは違う…😱」と分かってからも、父を悲しませたくない。と思い、話を随分合わせていた記憶があります。

父の気持ちや、完全に男の子の見た目なのに、少し変わった一人遊びが好きな子供でした。おもちゃはあまり買って貰えなかったので、そのころ流行っていた「バービー人形」とかは一切なくて、そもそも買って貰えるとも思わなかったのでおねだりをすることもなかったのですが、実はすごく欲しかった記憶があります。のちに、荷物をまとめるビニールテープを細く割いて(剣山やコームで)、それを束ねて一つで持ち、まるでお人形の髪毛の様に見立てて遊んでいました。たまに、鉛筆に巻き付けてほどくとカールが出来てそれを作って遊んでいました。なにか、長くてゆらゆら揺れる動きが好きで編んだりしたりしていたので、そのころから後に美容師になる要素が見られた最初の時だと思います。

男の子のビジュアルにして、心は女の子の要素も持ち合わせていたことをはっきりと覚えているので、「おとこおんな」とも保育園の男子共にからかわせていた記憶もあります。(今でも名前は覚えてるよ~😏)それに対してヘラヘラしていましたが、けっこう傷ついていました。傷を深めたくないからヘラヘラしていたのでしょう😅。昔は割とはっきりと区別する世の中で、さらに子供の残酷さも加わり、はっきり女の子です!というのが恥ずかしい幼少期でした。少し繊細な子供だったかもしれません😅

そんなころ、母は入院しました。後から聞くとその時に言われた病名が「白血病」でした。小さい私はもちろん何かわからず、電車で4駅離れた母の実家に預けられました。姉はもう小学生だったので、父と姉の2人暮らし。私はおばあちゃんのお家で数か月預けられる生活が始まりました。

おばあちゃんの事は大好きなのですが、さすがに少し寂しかった記憶があります。お見舞いに行くときはいつも駅からダッシュ🏃‍♂️🏃していたそうです。お祖母ちゃん宅には、一つ上の双子の男の子のいとこ。そしてその二つ上にさらにおにいちゃん。男の子3人いる家に預けられ、それはまた違う意味でサバイバルでした👊喧嘩だらけの日常・・・。そしてこちらにもとばっちりがきて。。。女の子の園の魚津の家に帰りたーーーい😭😭😭と、ずっと願っていた記憶があります。
そんなこんなで、サバイバルな幼少期を過ごしながらも体も心もすくすく育ちました。

ちなみに、母の病名は「白血病」ではなく、「膠原病」でした。
その後もこの病気にはかなーり💦母は長い付き合いとなります。
そして、家族も同様です。

次は、小学生編です。


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