見出し画像

出雲街道とオシドリ

                  

山陰を旅したいと聞くとついつい頬が緩む。山陰へのルートは、東京からなら、早くて楽のは当然飛行機。一時間二十分ほど。関西ならJRか高速バスは、料金も安いし乗り換えもない。もちろん愛車でドライブならきっと楽しいと思う。名神から中国道、米子道と高速道路が繋がっている。

 今のように選択肢が少ない時代はいったいどうやって来られたのか、とふと思い、こちらで話題の出雲街道跡が残る中国山地の山間の町、根雨(ねう)、出雲街道の宿場町を訪ねた。

 鎌倉時代末期の14世紀に隠岐島に配流された後醍醐天皇がこの出雲街道を通られたらしい。らしい、というのは文献などにどんなルートで隠岐まで行ったのか記載がないから。反対に隠岐から脱出して山陰海岸に上陸したのは御来屋(みくりや)ではないかとか、上陸後、最初にここの石に腰掛けた、ここにはお手つきのお姫様がおられた、と脱出後90日も山陰の伯耆の国にご滞在だったので、記述がたくさんある。そりゃそうですね。失意の隠岐行きとこれから京都に攻め上るという上昇機運のときとでは取り巻きの顔ぶれも気合も違うのですから。それに今だって犯罪者が、拘置所から裁判所に護送されるルートは明かされないことを考え合わせると、出雲街道の根雨を通って山陰のどこかの港までたどり着き、隠岐への船にのったかなど記述が残るはずもない。しかし、観光資源を掘り起こすには、「ここを通過したのではないか」という話はロマンもあってよさそうだ。

小雨が降っていたが、街道を散策すると街道筋の商店にはそろいの暖簾がかけられいいムード。地元密着の銀行さんの支店にもちゃんとかけてあった。

 でもねえ・・・この出雲街道を舞台にして、ちょうど“木曽路は全て山の中にある~”というような小説があるといいんだけれど見当たらない。(鳥取県のそれも中国山地の街道といってもよほど日本中世史に興味をもっていないと理解して頂けない)小説にはヨン様ばりのイケメンが登場し、町おこしのために奔走しもちろん美しいヒロインも出てきて、最後はめでたしめでたしになるといいんだけれど、なあんて想像しながらほっつき歩く。

 実際の風景は残念ながら、山は深くこの先、海までまだ相当の距離がありそう、と意気なえてしまいそうで、そうロマンチックではない。もしも後醍醐天皇がここを護送されたなら、何とも淋しいお気持ちになられたと思う。散策MAPを見ながらキョロキョロと歩いているうち、おなかも空いてきてお蕎麦さんに入ったら、地元産のそば粉を使う手打ちそばを出してくれた。これが絶品。後醍醐天皇も召し上がったお蕎麦とは書いていないが、後醍醐天皇にも差し上げたかったお蕎麦と表現するなら、いい“かも”しれないと、食べたのは“鴨”南蛮けど。何も小説だけが町おこしの材料ではなく、美味しいものは旅には魅力的よね、と独り言を言いながら、ツルツル。

 この先どうなるのと不安を募らせて隠岐までの行程を踏んだのではなく、再起するぞと念じながらこの根雨を通過されたなら、後醍醐天皇は大変な意志の持ち主だと思う。天皇という地位で保元・平治の乱などご存知だったら讃岐に流された崇徳上皇もその地で亡くなったし、承久の乱の後鳥羽上皇も隠岐で失意のうちに生涯を終えていることを後醍醐天皇は知っておられたのではないか。ちょっと思い出してみると配流後、リベンジを果たした人は佐渡に流された親鸞聖人が思い浮かぶくらいだ。

 冬場の根雨はオシドリの越冬地、水害で流された観察小屋が2022年に再建され間近でオシドリを観察できる。冬の川水はさぞかし冷たく寒さがしみるなあ、と眺めていたら、つがいで泳げば温かいのよ、とウソかマコトか囁かれてしまった(笑)。


ゆうこの山陰便り NO.23 加筆修正

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?