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たまに観る映画レビュー:言葉出ない…『旅するローマ教皇』

土曜日って、たいてい病院の予定が入っていたり、月に一度は美容院もあるいし、なかなか予定が空く時がないのですが、本日はどういうわけかスケジュール帳に何も入っていませんでした。

いえ、本当は人間ドックの予約があったのですが、先週末に熱を出してインフルエンザ疑惑が生じたので、人間ドックが延期になったのでした。

せっかく予定が空いた土曜日。春眠暁を覚えずを先取りする手もあったのですが、「もったいないでしょ!」という心の声の囁きに応じて映画を観にいくことに。ちょうど、会員権が今月で切れるし。

ということで観て来たのが『旅するローマ教皇』@下高井戸シネマ。

ローマ教皇の外遊をめぐるドキュメンタリー映画

正直申し上げると、ローマ教皇はカトリックで私はプロテスタントのクリスチャンなので、すご~く期待してわけではありません。でも、今朝、出掛ける前の短いお祈りで「同じイエス様を信じているので、この映画を通して何かイエス様が私に語りたいことがありましたらはっきりわかるようにお示しください」と祈りました。

「それで観てどうでした?」

結論から申し上げると、圧倒されました。泣けました。悔い改めさせられました、いろんなこと…。

何をどこから書いていいやら見当もつかないので、感じたことを羅列すると…

人間なのに、これは荷が重いだろうなあ。過去のクリスチャンの過ちを、今自分がトップの座にいるからってあんなに真剣に心に感じて謝罪をするなんて。イエス様は確かに人間の肉体を取ってお生まれになり33年間、人として生きてくださったけれど、でも中身は神なんだからまだ精神的な部分では耐えようがあっただろうと私には思える。でもローマ教皇は正真正銘の人間なんだから。

この教皇の謝罪される姿を見ていると、この世のビジネスの世界で「みなさまにご迷惑とご心配をおかけして申し訳ありませんでした」と頭を下げているあちこちの企業トップの、誠意のなさ、心の伴なわさ加減が透けて見えるよう。

ローマ教皇が訪れる地は厳しい問題を抱えている。移民、難民、貧困、戦争…。私はそれらをTVのニュースで目にして、「ああ…」と思い、その場で祈ったりはするけれど、あまりに無関心だった。ひとつ一つに対して、確かに私が具体的にできることはほとんどないに等しいかもしれないけれど、少なくともきちんと認識して祈りなさい、とイエス様に言われた気がした。

それにしても、教皇は外遊を通して世界の課題を総ざらいされている。あんなに厳しい現実の場所を次々訪れ、そして共感するのだから人の心を持っている以上、どんなにしんどいだろう。それをすべてイエス様の前に注ぎだして、支えていただいているのだろうか?

ローマ教皇の訪問は、国のリーダーの外交ではないので、歓迎されてなさそうな国にも足を向ける。実際に、いかにも敵対心が溢れる厳しい顔つきの相手と向かい合い会話がなくて重苦しい沈黙だけのシーンも。あれはきついと思う、いくら教皇でも。

驚いたのは、空の上からすでにその国の空軍に警備されていることもある、ということ。地上でも、それこそ映画に出てくるような体格のいいSPが周りを取り囲み、ほとんど命がけ、文字通りに身体を張ってオープンカーから市民に手を振る姿も。そして、どの国でもそこそこの事情を配慮したスピーチをしながら、一貫して夢と希望を持ち続けることを語り、平和を訴える。それは本当に、究極的な平和のために、自らが主の僕となって、仕える姿…、真の意味でのサーバントリーダーの手本。

椅子から立ち上がるのもしんどそうで、足を少し引きずったように歩かれるご様子も。それでも飛行機やヘリコプターに乗り、ジェットセッターさながら世界を飛び回られる動機に、自分のためなんて欠片も見受けられない。

各国でのスピーチが、本当に訪れる先の、歴史や現状やいろいろを踏まえた、配慮のある熟考されたものであることが、ほんの短い時間のシーンからも伝わって来て、日ごろの自分の浅さを思い知られ、反省させられた。


ローマ教皇が2019年に訪日された時は、私はあまり関心がありませんでした。プロテスタントでは、人を拝まないのでマリア崇拝もない。その点だけ取り上げても、カトリックの教えとは理解が異なるので、ローマ教皇という存在にも、関心が持てませんでした。かえって、ノンクリスチャンの知人に「今度ローマ教皇が来日するんですよね?」なんて聞かれて驚いたくらいでした。この人は何に期待してこんなに嬉しそうなんだろう?って。

でもこの映画を観て、その考えを改めます。同じイエス様を信じる者として、またカトリックとプロテスタントという違いはあるにしてもも、同じ信仰者のリーダーとして、ローマ教皇フランシスコのお働きはすばらしい…。

最後のお祈りのシーンでは、映画館の座席で私も祈らずにはいられませんでした。目を閉じてしまうと字幕が見えなくなり、教皇の祈りがわからなくなるのでスクリーンを見つめながらお祈りさせていただきました。

私は、涙ぐむ程度でしたが、館内には最初のほうから他のお客さんの鼻をすする音がずっと聞こえていました。

観終わってある種呆然としていた時に、聖書の御言葉を思い出しました。

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
ガラテヤ人への手紙 2章20節


クリスチャンかそうでないかに関わらず、多くの人に観ていただきたい作品です。






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