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アーサー・ランサムの世界へ

イギリスの湖水地方を主な舞台としたアーサー・ランサムの冒険物語「ツバメ号とアマゾン号」シリーズ。ジョン、スーザン、ナンシー、ペギーといった子どもたちが主役の、“ランサム・サーガ”と呼ばれる12冊の作品が、子どもの頃から大好きでした。日本はアーサー・ランサム作品の人気がとりわけ高い国らしく、近年も岩波文庫から文庫版の新訳版が出版されています。

私が子ども時代に読んだのは、分厚いハードカバー版です。1冊300ページとかあるズシリと重い本を図書館から借りてきて、まずは表紙をめくったところに載っている各巻ごとの地図を眺めます。その巻で舞台となる場所を簡潔に記した地図は、小学校高学年だった私の好奇心を大いにかき立てました。それから本文を読み進めていくときのあのワクワク感。大人になった今では、どんなに面白い本をでもあそこまで没入して読むことができません。それほど、物語の世界に入り込むことができる本でした。

1冊でもかなり分量がある本ですが、お気に入りの巻を中心に子どもの頃何度も読み返しました。どれも面白いのですが、自分の好きな3冊を挙げるなら「ツバメの谷」「長い冬休み」「ツバメ号の伝書バト」でしょうか。ちなみに、「ツバメ号の伝書バト」は、イギリス図書館協会が創設し、優れた児童文学に送られるカーネギー賞の第1回受賞作となっています。年を経て大学に入ってからは小型ヨット(ディンギー)に乗るクラブに入り、ランサムの作品を原書で読んでみたいと英語版を少しずつ入手していきました。やがて、旅行でイギリスを訪れて湖水地方で物語に出てくる農場のモデルとなったとされる建物(現在B&Bになっています)に泊まり、2016年にイギリスで映画版が公開されるとDVDを取り寄せて視聴する、といったように、アーサー・ランサムの作品とそこで描かれる世界からは長い年月にわたって影響を受け続けています。

成人してから読み直すと、それなりに裕福な家庭の子どもたちだからこういう休暇の過ごし方ができるんだよなと感じられたり、文体がやや単調に思えたり、またシリーズの中に全然恋愛の要素が出てこない(良いとか悪いという話ではなく)といったことにも気づくようになりました。それでも、自然の中で子どもたちが大人たちから離れ自分たちだけでキャンプや冒険を行っていく姿は、今読んでも強い魅力を感じます。

ランサム・サーガの12冊の物語がイギリスで発行されたのは1930~1947年にかけてです。当時は、世界恐慌が起こりドイツではナチが台頭し、第二次世界大戦になだれ込んでいくという、混乱と戦争の時代です。そんな中で書かれたランサムの物語が、戦争の影を全く感じさせないものだということも特筆すべきことだと思います。ランサムは若い時代に新聞の特派員としてロシアで何年も過ごしてロシア革命を間近で目撃したり、蒋介石と孫文が争っていた頃の中国に派遣されたりしています。激動する世界の最前線を身をもって感じた人だと言えるかもしれません。その後、45歳のときにジャーナリズムから足を洗い、「ツバメ号とアマゾン号」の執筆に取りかかったといいます。特派員時代の体験から抽出した要素もランサム・サーガに使いつつも(「女海賊の島」は中国が舞台です)、戦時中であっても子どもたちには読んでワクワクするような物語を届けたいという思いがあったのかもしれません。

ランサムの作品について、最近になってもう一つ気づいたというか、意識するようになったことがあります。それは、ランサムの本にはヨットの場面以上に「歩く」場面が多く描かれていることです。おそらく一般には、ランサムの最大の魅力はヨットでの帆走シーンであり、各部位の名称や操船の方法に至るまで詳細に記されたリアルな描写にあると言われることが多いと思います。そこがランサムの本をほかの冒険物語と区別する大きな特徴であり、私もそこに惹かれて後年自分でも小型ヨットに乗るようになりました。でも、主人公の子どもたちは、ヨットによるよりもはるかに多くの時間を湖水地方の渓谷や山、凍った湖の上などを歩くことに費やしています。この「歩く」という側面にも、子どもの頃から知らずのうちに私は惹かれていたのだろうなと、このところ思うようになりました。数年前から始めたトレイルランや山歩きなどをしている際に、ランサムの作品のことを思い起こす機会がたびたびあるからです。

ランサムがこの点に意識的だったのかどうかはわかりません。でも、複数いる主人公たちの1グループ、探検家を名乗るジョンやスーザンなどの兄妹のファミリーネームは「ウォーカー」、そのまま訳せば”歩く人”という意味です。イギリスでは今でも、ランサムの作品の舞台を歩くためのガイド本が複数出版されているそうです。そうしたことを考えても、ランサムはセーリングだけでなく、自ら湖水地方などの野山を歩き回ることも好きで、そうした経験を積み重ねてきた人なのではないだろうかという気がします。

そんなことを考えていると、以前は帆走への興味と結びついて何度も読んでいたランサム・サーガを、今度はハイカー、ランナーの立場として読み返してみたい、そしてランサムがどんな人だったのかをもっと知りたいと思うようになってきました。ランサムの自伝や評伝も日本語訳されたものが出版されていて、ずいぶんと前に読みましたが、もう内容はほとんど覚えていません。ランサムは世界各地に今でも熱狂的なファンを持ち、日本にも「アーサー・ランサム・クラブ」があり、文学者だけでなくそうしたファンたちによってもさまざまな研究がされていると聞きます。私はそのような場には参加していませんし、ランサムについて特別に詳しいわけでもありませんが、1ファンの立場から、ランサムの作品やその世界のことを思いつくままに書いてみようと思います。


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