分断/虚構/これは嘘の日記

最近目が覚めて最初にやる事は、寝言を録音できるアプリの確認だ。
先輩がやってるのを見て面白そう!と思いながらこの数日続けている。いったいどんな寝言を言ってるのだろうとワクワクしながら聞くのだが、正直なところ始めてから全く面白い寝言は録れていない。そのかわりに自分はいびきと歯ぎしりをものすごくやってると言う悲しい事実がわかった。想像以上に騒々しい。
今日も残念ながら歯ぎしりの音しか入っておらず、毎日こんなに力強く歯を噛み合わせていたら歯が無くなるんじゃないかと心配になったりしたが、気づいたのが25歳のアプリで録音して初めてという事は25年間は大丈夫だったという事で、漠然とじゃあ後25年ぐらいは大丈夫なのかな?と思ってみたりもする。

かすかながっかり感と、まあそんなもんだろうという無関心さを感じて、コーヒーを入れる。最近は暑いのでアイスコーヒーにしたいのだが、家に製氷機がない。だからコンビニまで氷を買いに行かなくてはならず、なんなら氷を買うよりアイスコーヒーを買ったほうが安いのだが、そういうところで冷静になれないのが僕のいいところだと思う。とにかくアイスコーヒーを入れるという事に意味があるのだ。でも多分つくり方がうまくないみたいで、と言うより、普通に入れたコーヒーに氷を打ち込んでいるだけなのですごく薄いコーヒーみたいな茶色の液体ができる。でもアイスコーヒーって意外とこんなもんなのかな?と思いながら飲んでいる。

ふとパンを買いに行きたいと思った。代々木上原にあるパン屋さんでいつも買っているのだが、そこのパンは硬くて、安い。正直そこまでパンにこだわりがあるわけではないのだが、代々木上原のパン屋さんは美味しいというイメージがあって、僕が食べているのはパンではなくイメージなのだなと思う。でも今日は暑そうなのでちょっと休憩してから行こうと思う。

仕事のメールが届く。テレワークになって気が楽になった人が多いと思うが、多分に漏れず僕もそうだ。テレワークになって電話をかけてくる人の気持ちがわからない。そんなに急ぎのことってあるのだろうか。というか、電話ですぐに連絡が取れる人は多分メールでもすぐ見てると思う。電話の音は時間の流れを分断するみたいでドキッとするから嫌だ。とにかく、メールのほうがいい。メールには今日中に資料をまとめてくれと書いてあり、多少の憂鬱さと、それでも仕事があるだけマシかというなんとも言えない気持ちになりながら午前中が終わる。午前中は時間の流れがゆっくりで、朝の8時からお昼12時までの4時間は、午後の8時から深夜12時までの4時間とは多分流れが違うぐらい違う。それを知ってから毎日が長くなった。

1日が長くなるとやれることも多くなる。本を読んだり、映画を見たり。一人でいるから考える時間も長くなる。コロナ、差別問題、安倍政権、いろんなことを考えるが、それは考えてるつもりなだけで、情報を、文字を、目で上滑りしてるような感覚もある。知識としては知っていても、体験として実感できないので、なんだか遠い世界のような、フィルターかましてあるみたいな、他人事感というか。でもそういう状態の人々に対して世の中はとても厳しくなってきていると感じている。個人的には、それぞれが、それぞれの具合で、それぞれの思想を持っていていいんじゃないかなと思う。他人を傷つけたり、攻撃したりしなければ。この思想を大事にしなくては、団体意識だけに取り込まれて結局思想のない存在になる。差別はいけないという大きな正義の中に、信念を持って取り組む人と、間違ってないから参加してる人がいて、そのズレがあるまま、団体と個人がぶつかった時、個人の力はとてもちっぽけで、結果的に分断が起きる。

みたいなことをいつも考えてるわけではなくて、ぼーっとインスタやツイッターを見てるとあっという間に夕方になる。最近はこれは良くないと思い、スマホのスクリーンタイムでSNSの利用時間を2時間半に制限しているのだが、タバコと一緒で落ち着かず、ついブラウザでみたりしてる。どうしてこんなにも何もしない時間を恐れるようになったのか、かといって何かをしている時間もそんなにあるわけでもないよなと思いながらまたコーヒーを入れる。氷は2回分あるが、1日で使い切らないと溶けてしまうからだ。また薄いコーヒーを飲む。

夜になって本を読む。画面を見すぎで夜ねれないので夜は本を読むことにしてみた。村上春樹はやっぱり面白い。何も始まらず、何も終わらないような文章なのに、なんだろう、あれが味わえる文章というか、文字を読むことでその世界の空気を感じられるというか、でも何となく今の状況に近い気もする。コロナという目に見えないウイルスに世界が汚染されているという現実と、羊男がいる世界は同じぐらいリアリティがないが、どちらも現実であってもいい気もする。僕は部屋の中にいるからどちらが本当で、どちらが嘘かはわからないと思う。どうして村上春樹の小説がフィクションだと言えるだろう。どうしてこの僕の感情がフィクションから生み出されたものだと言えるだろう。フィクションから感じたことと、現実の差別から感じたことの気持ちの間に優劣はない。フィクションと現実の間にも優劣はない。理想と現実の間にも優劣はない。優劣という概念は分断である。世界はもっと滑らかで、スムースで、繋がっていて、それはフィクションと現実が繋がっている世界もあるような気持ちになり、僕の感情と世の中のすばらしいとされている人の意識も繋がっている可能性を示唆しており、過去と未来が繋がってることを確認できる。今日もこうして眠るが、24時を回っても日付という分断があるだけで、繋がっている。眠っていても繋がっている。その証拠に多分明日の朝寝言を記録できるアプリを聞いてみても、意識が分断された時間の中でも僕はしっかりと歯ぎしりをしていて、それは僕が途切れていない証拠でもある。

でもなんか面白い寝言言ってたらいいなと思いながら、ワクワクして聞いて、軽くがっかりしているのだろうな、とも思う。

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