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行政サービスと料理店、そして怪獣

娘の出生届と、病院の協力や妻の鬼リサーチで存在を知った、補助金の申請手続きをするために、役所の窓口へ出向いた。こういった補助制度は自分たちが知らないだけで、様々なものがあるのだな、ありがたい制度だなと思いながら、何度も名前を書き、何度も押印して黙々と書類に記入をしていた。
そんな僕の横では、老人が窓口の対応に不機嫌そうにしている。
手続きを終え、僕は職員へこのありがたい補助制度への感謝の気持ちを示した。
老人はまだ手続きへの不満を職員に対して訴えている。
その後、昼食をとるために行きつけの喫茶店でランチを食べる。
「サラダには千葉県産のレタスを使用!」と書かれたメニューから、いつものナポリタンのセットを注文。美味しそうなナポリタンは太めの麺が絶妙に焦げていて、同じプレートの端には、レタス、トマト、スライスきゅうり、そしてポテトサラダがさりげなく添えられている。
僕は気の利くフロアのスタッフや、カウンターの奥で鍋を振るオーナーと、美味しい野菜を作ってくれている、顔も知らない農家の方を想像し、「いただきます」と手を合わせ感謝をしてから、それを頬張る。
食後のコーヒーを飲みながらスマートフォンに表示される「レタスが不作」と言うニュースに目が止まる。

システムは触れたところで判断される

「人々は末端を通してのみシステムを認識し理解する。よってシステムの信頼性とは、いかに末端が適正に厳格に機能しているかで判断される」

アニメPSYCHO-PASSの台詞の一つだが、これを見た時に、ものすごく納得した。
まぁ当たり前の事なのだが、webサイトや其れに付随するシステムを作る仕事をしている事もあり、痛い程に身にしみた。
そして、コレと似た様な事何かあった様な…と。
そう、役所で行ったあの面倒な手続きだ。

生活の手助けとなる様々な行政サービス。
日常で普段当たり前のように使っているもの、例えば公園であれば、僕の場合は、よく整備されていれば良い印象を覚え、整備されず古い遊具があったりすると危険だなという印象を覚える。
手続きが必要なもの、例えば出産時の一時金の手続きがスムーズに行けば良い印象、そうでなければ逆の印象を覚える。
どちらも良かれ悪かれ、印象を覚える程度で、そのサービスの中身自体は、「定めれられた物」を受け取る以外の感想を僕は持たなかった。

では、冒頭エピソードの後半で行った、料理店ではどうだったか。
役所の窓口と同じく人が接し、そのサービスへの感想をフロアスタッフへ、そしてその料理を作った料理人へ、僕は直接感想をのべた。
ここまでは行政サービスと同じく、受けたサービスの印象を覚える程度だ。
しかし、更に僕はその料理の素材について、その生産者に思いを馳せ、行動を起こす事が出来た。
料理という接点から、素材自体の興味、更には関連するニュースへ、僕の行動に影響を与えた。

提供側でなく、受ける側を見る

いきなり行政サービスと、料理店と言う全く違うものを比較してなんの意味があるのかと思うかもしれないが、ここでは、サービスを受ける側の僕の反応を見て欲しい。
どちらもお金(税金)を対価に、僕はサービスを受けている。
行政サービスは、決めた事に従うしかないと感じで、接点の印象に留まり、その仕組みや受けるものの内容には「決められたもの」としてしか捉えなかった。
しかし料理店は、そのサービスに対した評価以外にも生産者に対して思いを馳せ、更には僕の行動にまで影響を与えている。

その違いはなんだろう?
全く違う行政サービスと料理店を並べれば、違う部分があるのは勿論わかっている。しかし、同じ対価を払っているものなのに、「もらえるもんがもらえれば後は知らない」と言う感覚と、「背景には色々あるのだな気になる」と興味を惹かれる違いはなんなのか。
行政サービスが、当たり前すぎる存在だったり、仕組みや手続きが複雑すぎるからだろうか。
もし複雑さが壁であれば、例えば補助金の申請手続きが、わかりやすいメニューから選んで注文し、レシピ通りに切って炒めて盛り付けてさっと目の前のテーブルへ出てくるレベルのシンプルさであったら、もっと身近な印象になるかもしれない。きっと僕はそのメニューをみて、「これはどんな理由でこの制度、作られていますか?」とか質問するかもしれない。
しかし、実際にはそんなにシンプルではないし、メニューにナポリタンがあったら、そのバリエーションだけで100種類はいきそうだ。ましてや「この制度は〜から生まれました!」なんて表示は役所の窓口には出てこない。
メニューの一行で言い表せられるものではないのだ。
料理店を比較に使ったが、置き換える事は無理だ。

ただ、ここまで書いて気がついた事がある。
それは、メニューに登場した生産者は、「自分たち」ではないか、という事。
そして、それを料理し、提供してくれている人たちがいるのだと。
そう考えると、行政サービスは、考える人がいて、動かす人がいて、届ける人がいる、血の通ったシステムなのではと思えてきた。
このシステムは、生活者の声や行動、そしてお金(税金)を元に設計され運用されている。不完全な部分や、決してそれが正解と言うわけではないと思うが、それでも私たちの営みを維持、発展させる為のものであるはずだと僕は思う。

それなのに、身近に感じないのは、やはり仕組み自体の巨大さ、複雑さから、疎外感を感じ、目を向ける事すら億劫になっているからかも知れない。

結局は捉えられないほどの巨大さや、複雑さがいけないのだろうか。
身近な存在として比較で料理店を出したが、前述したように規模が違いすぎて置き換えは無理だとわかっている。
ナポリタンが100バリエーションできてしまう。
もう一度キーワードで考えてみよう。
巨大、複雑、生活者の声と行動、お金で動く、血の通ったシステム。。。

行政は怪獣?

キーワードを頭の中でグルグルさせて思いついたのは、行政を生物に置き換えると言う事だった。
しかも超特大の。
僕たちの声を聞き、行動を観察し、お金を餌に動く、巨大で複雑な骨格の生物。
まるで怪獣のような生物は成長の度に姿形を変え、時には骨格すらも変わる。
人によってはその巨大さから目を逸らしたり、恐怖を感じたりする。
その巨体故に時には何かを潰してしまう事もあるかもしれない。
しかし大きな身体で僕らを驚異から守り、時にはその大きな手で窮地から救ってくれたりもする。(巨体故に、助けの声もなかなか届かないが)
この巨大生物は、いつも僕らの生活の中に居る大きな隣人だ。
この大きな隣人の行動が、僕らの生活を支え、維持し、発展させてくれる。
そう考えると、行政自体がなんだかとても身近な感じになってきた。

綺麗に整備された公園であれば、大きな隣人の整った手を想像し、
危険で寂れた公園があれば、大きな隣人のカサカサに荒れた手を想像して、その手荒れを治すようにと伝えるだろう。
補助金の申請でなかなか手続きが進まなければ、大きな隣人の耳に早く届くように頭を下げてもらうよう伝え、首が痛くて今は下げられないと言うのであれば、その理由に納得して待つと言う事もできる。

大きな隣人と共に

僕らは様々な物と関係しながら日常を生きている。
今の時代、自分が享受するものは、必ずと言っていい程何か対価をはらい、提供される。
温かい料理、着心地の良い服、心地の良い音楽、暖かな家、
そして、行政サービス。
あまりにも巨大で複雑なものは、理解しようとしてもまず無理ではあるし、その殆どは確かに自分とは関係がないものばかり。
それでも僕らが対価を払っているものは、僕たち自身の生活を豊にし、未来を明るく保とうとしている。
だからこそ、付き合いやすい存在である事が大切なのではないか。

今日も大きな隣人は、僕と、そしてあなたの側に。

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