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「猫様のクチバシ」第五回 物語のようにスキレットで餃子を焼きたい

2022年に刊行された本なので、おそらく書かれたのは2020年から2021年の疫病流行の真っ只中であっただろう。
その前には世間でSNSやキャンプブームがあって、スキレットは既に知られるようになっていた。
動画が流行を作るということが始まったのは、2016年くらいからではないか。
たった7年の間に世間の流行は次から次に移り変わった。
しかし、災害、疫病流行、戦争と世界情勢はなかなか平和な局面に移行しない。
人々はうちにこもって、或いは1人や家族の時間を殊更大切にするようになり、「おうち時間」や「ていねいな暮らし」が流行った。
当時の言葉で言えば、ステイホームだ。
これは消極的というより、政府から推奨された積極的な巣籠もり社会であり、人々は暮らしの中にちょっとした彩りを求めるようになったのだろう。

双葉社の本を読むのは久しぶりである。
なんとなく児童書のイメージがあった。

「今宵も喫茶ドードーのキッチンで。」(以下、"喫茶ドードー"と表記。)を読んで、疫病流行以降のノートを始めた。この3年以上のことがつらつらと蘇ってきた。
私自身の性格で言えば、子供の頃から好きだったことを再び思い出して、あれこれ趣味を見つけようと手を出しているけれど、結局のところ子供の頃から全く変わっていないのだと実感している。

世の中では、自分を変えた出来事だとか、挫折を乗り越えた経験だとかが、他人に話すものとして重宝されるけれど、人間は早々に変われないし、変われないからこそ、他人と衝突したり、挫折を経験したりするのではないかと思う。

喫茶ドードーで描かれてれているように、
ハッシュタグで流行った
#ていねいな暮らし
#モーニングルーティーン  
などは、どちらかと言えば穏やかな暮らしを実現するものではなくて、日々を充実させるためにやることを増やすようなものだった。例えば朝ヨガをしたり、例えば朝ごはんを丁寧に作ったり、朝から忙しい。変わり映えのしない毎日を送ってもネタにならないし、写真映えがしないのだ。noteのネタもない。

映えることが求められたのは、疫病流行以降ではなかった。おそらくiPhoneが世の中に出てからのことだ。2011年から数年後の事ではないか。私の記憶が確かならば、SNSの流行は2014年ごろから始まったということだろうか?
その頃は、日常の切り取りの中に愚痴だとか、他人の誹謗中傷とかが混じっても、まさか戦争の映像が頻繁に世の中に拡散されるようになるとは、私は想像もしていなかった。

SNSの中には、虚偽や世の中に対する挑発ばかりではなく、有益な情報発信も多数ちりばめられている。今はXと名を変えたが、Twitterのもともとの趣旨は噂話程度の事、例えば井戸端会議のような場を想定していたかもしれない。

世の中をより良くすると言う事は、ただ「有益な情報を共有する」「楽しいことをみんなで分かち合う」ということばかりではなくて、例えば日常のストレスを発散する場を設けることも、その一つだ。

楽しいことも毎日やればストレスだ。例えば、喫茶ドードーでもSNSで知って、どうしても買いたくなったスキレットも使っているうちに洗う作業が面倒になっている。
我が家はIHだ。ガス日では無いので、スキレットを使うには石油ストーブをつけるかバーベキューでもしなければならない。
昨年後半に買ったので、寒さが和らいでくると、もう出番がなくなった。寒くもないのに、スキレットで料理をするためだけに、灯油を消費するのももったいない。

ていねいな暮らしの中には節約生活も入るかもしれないが、節約生活がていねいな暮らしの全てではない。
手間やお金をかけることも含まれる。

例えば、ダイエットをすれば食費を抑えられると思う人もいるだろう。しかしながら、ダイエット食品を買えば、かえってお金がかかる事も多い。ましてや一昨年に流行したチートデイと言うのは、節約もできなければ、ダイエットも完遂できない、よくわからない風習だった。数日とか、1週間、ダイエット食を頑張ったら、自分へのご褒美にドカ食いできる日を設ける。もはややりたいことはダイエットでも、節約でも、ていねいな暮らしの充実でもなく、SNSにアップすることが目的のようである。
最初に、その言葉を使った人はうまくいかないダイエットのための言い訳だったのかもしれないが、何事にも限度が必要だという話が、かえって流行に限度を超えさせてしまった。

例えば、SNSで度々起こる炎上も、最初は親切な忠告から始まったのかもしれないが、限度を超えて、よってたかっての個人攻撃に変わってしまうのである。

リモートワークとかテレワークとか人と直接会わずに仕事ができるようになって、精神的負担や仕事量の負担が減ったかといえばそうではなかった。むしろ出社したほうが楽だと思う人も多かった。歓迎している人もいたが、直接やりとりをしないと自分が思ってもいない方向に仕事が進んでしまって、後から修正が大変になるという話も聞かれた。喫茶ドードーでもそんなシーンが描かれている。

私だったら、多少手間がかかっても他人と会わない道を選ぶ。それで精神的負担が必ずしも軽くなるわけではないが、LINEを聞かれる事は、セクハラだという若者の気持ちも理解できない。
私はしょっちゅう時間を問わず連絡が来るようなSNSの通信手段は嫌いである。LINEより電話のほうがよっぽどマシだとは思うが、電話番号を変える事は大変な負担なので、何かあったときの予防策として、連絡手段がSNSなどの通信手段に変わるのは必要悪であると思っている。

私が新卒で就職活動を始めた頃、最近の子は本籍地を書かないという事を面接官によく言われた。何かあった時のために、後見人や実家の住所を書く欄が履歴書にはあったのだが、そこに実家の住所を書かない人が多くいたのだ。
それをあっさり書いて提出した。私に対して褒めていたのか、あるいは呆れていたのか、東京の面接官の反応はよくわからなかったが、とにかく必要なことなのに、説明しなければ、実家の住所を書かない人たちに困っていたのは確かなのだろう。
LINEが嫌なのであれば、他の連絡手段が取れれば良いのであるが、連絡手段を他人に与えることに対して、今の若者は身構えてしまう。とても強い警戒心を持っているようである。

野良生活が長かった犬や猫はとても警戒心が強くなると言われる。しかしながら、人間はおうち時間が増えて警戒心が高まったのだろうか。なんだか逆のような気がしないでもない。野良は安全な世界を知らないのだ。外の世界を知らないからこそ、外の世界にいっぽ踏み出すときに、恐れが先に立つのだ。

人々がこれだけ穏やかな生活を求めているのは、世界がそれだけ平和でなく、人々の心が乱されている証左なのかもしれない。

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