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オタクについて語ってみると




「オタク」、または「ヲタク」と表記される場合も多いのですが、これらの人種に関することについて一歩踏み込んで書いてみたいと思います。
この「note」の記事に同人とそれにまつわる人々のことを書くと、「オタク」のことについて反応があったからです。

今は「オタク」はある意味市民権をもってしまっていて、我々が知っている「オタク」たちとは違ってきているようです。

個人的には「オタク」に関しては否定的な考えを持っています。
これはあくまでも自分の知っている「オタク」たちにたいしてですが。

ここから書くことはすでに他の「note」記事とも重複している部分があることをまずお断りしておきます。

記憶を辿りながら、時系列で書いてみたいと思います。
「オタク」に関しては今更ですが、すでに市民権は得ていると思います。
かるい意味で「ヲタク」と名乗る人は多くて、自分は何々オタクでという風にライトに話します。

市民権を得た一つの理由はアニメやゲームといったものが大きな利益につながると社会が認めたからだと思います。

これは「漫画」も同じで、我々が子供だった頃に「漫画」叩きが社会に蔓延していて大人たちは漫画バッシングに血眼になっていた時がありました。
権威ある教育学者などが必死になっていましたね。

今思い出しても、どうしていい大人がそんなに必死になっていたのかと、子供心にも思っていたことを憶えています。あの時の権威ある人々に「ゲーム」や「アニメ」全盛の今の時代をどう思っているのか聞いてみたいと思うときがあります。

漫画はすでにエンタティメントコンテンツのトップの座から退いていますから。

「アニメーション」という言葉は、昔はアニメとは呼ばずに「漫画映画」というような呼び方がされていました。

個人的な記憶でしかないので正確なことは分かりませんが、「宇宙戦艦ヤマト」がヒットしてからアニメ雑誌などが作られて行きました。
このアニメ雑誌などが雑誌として定着した頃から、「アニメ」と言う言い方も同じように定着していったように感じます。

個人的な記憶で言うと、頻繁に「オタク」という言葉を聞くようになったのは、商業誌で「ロリコンブーム」が始まってから良く耳にするようになりました。
アイドル評論家の「中森明夫」さんなどがこの「オタク」という言葉をもちいていて、生みの親とも呼ばれています。
このアイドル評論家という存在が後で考えてみると、なるほどと納得できるものでもありました。



◇オタクという言葉と「宮崎勤」事件の関係。



この「オタク」という言葉を誰でもが知る言葉にしたのは、やはり「宮崎勤」事件があったからだろうと思います。

この事件の後、世間がこの事件を忘れた頃から「オタク」側から「オタク」という言葉が差別であるというような言動を良く聞くようになりました。
正直、世の中の人々はとっくに「オタク」というものに関心を失っています。

宮崎事件の後に「湾岸戦争」があり、さらに数年後には「阪神淡路大震災」と「オウム真理教」による「サリン事件」と立て続きに世界的にも注目を集める災害やら事件が続きました。
さらにいうと「震災」が何度も続き、世界でも初めての最悪な原発事故までありました。この頃になるともう「宮崎事件」そのものが忘れ去られています。


それでもなにか幼女や通り魔殺人のような事件がおこるたびに、「オタク差別」という言葉が「オタク」側から発せられます。

それが「オタク」が起こした事件などと誰も騒ぎ立ててもいないのにです。
例えば犯人を捜しているとき「ちょっとオタクぽい」というような表現をする場合は良くあります。

何かで例えるのが簡単だからです。外国人風やギャル風なども同じです。たいした意味はなくてマスコミ取材を受けた一般の人が、そういう例えをしたりします。ですが「ギャル批判」だとギャルが反発したりはしないわけです。


最近でもあったのですが、何一つそういう話は出ていないのに「オタク叩き」といって反発しているツイートを見ました。
一種のヒステリー反応のような感じを強くおぼえました。

「オタク」差別しているのは、「オタク」自身であると感じています。
何か事件があるたびに、「オタク」という言葉がないか近い表現がないかと血眼になって探しているような感じがあります。


この「オタク」差別していると反発している人たちのことを思い出していると、「宅八郎」さんというオタクタレントと呼んで良いのかどうかは分かりませんが、TVでよく見るようになった時期があったことを思い出しました。

「宮崎」事件の後ではあるのですがこの方が、「オタク評論家」としてやたらと「オタク」を擁護していたように思います。

実はこの「宅八郎」さん、自分はよく知らないのです。
同人だけではなく、「コミケ」などのイベント関係のスタッフからもこの方の情報が入ってきたことがなくて、本当に同人などと関わりのある人なのかどうかも分かりません。

個人的には「オタク」が「宮崎」事件で一躍有名になって、それを上手くとらえて登場してきた感じが強くあります。

「オタク」という言葉を擬人化したような──無意味に紙袋まで持って──ビジュアルで、今のオタク象はこの頃に作られていったのかも知れません。
どちらにせよ、マスコミだけの存在のように感じます。


この時、サークル仲間とテレビを見ていて、これではオタク擁護になっていないだろうと話していました。むしろやっぱり「オタク」はこんな変な奴で気持ち悪い存在であると、とどめを刺しているような感じでした。

当たり前ですが、あまりに「オタク」「オタク」し過ぎていて、まさにマスコミや世間が望むオタク象そのものを見せつけて、それで「オタク」擁護しても説得力があるはずがありません。

髪を切って、スーツを着て、「オタクとは」と話すのであれば話を聞く人もいたでしょうが、「キモオタ」を演じるようなことをしてキーキー文句を言うだけでは擁護になるはずがないですから。
この頃からビジュアル的な「オタク象」は定着していったように思います。


当時、「オタク評論家」と言われていた人々はこの事件以後、「オタク」関係の評論はしなくなりましたし、言われることを嫌うようになりました。
「宮崎」事件は当時知っていた「オタク」も含めて深刻な衝撃を与えていました。

これはなにも「オタク」たちを世間が叩くからではなくて、本人たちが自らの本質を見せつけられたような大きなショックを受けていましたね。

今は「オタク評論家」と言えば「岡田斗司夫」さん位ではないでしょうか。
世間的にはどうだか分かりませんが、この「岡田」さんのような感じの「オタク」は良くいて、何かと問題を起こしていました。

「大ぼら」を吹きイベントなどに良く顔を出して、自らもなにかイベントをやったりと、今もこのタイプの人は「クールジャパン」関係でイベントを行うときに一枚かんでいてなにかと問題を起こし、訴訟問題などにも発展しています。とにかく同人関係は「虚言」が多すぎます。

この「虚言」は普通の「嘘」ではなく、本人が信じている場合も多いので厄介です。

「虚言」を支えているのが「コミケ」のような気がします。個人的には「オタク」というのは、長く中二病をこじらせている人々のように感じます。



◇アイドルとオタクの関係。



サークル活動を終えてから分かったことなのですが、1980年代の「アイドル全盛」時代の加熱するファンの行動をルポタージュする古い書籍を見つけて読んだことがあります。

アイドルは好きではないので普通はこのような書籍を購入しないのですが、この時何気なくぱらぱらと読んだ内容が、同人の「オタク」のとる行動と酷似していたから思わず購入してしまいました。

「おニャン子クラブ」などアイドル全盛のブームの時に、過激な追っかけというものが──今でもいますが──いて、それらの実態が克明に取材されていました。

このアイドルの追っかけなのですが、単なるファンとはいえない存在です。
時々、今でも芸能界に残っている方が昔のこととして話題にすることがありますが、よくもまあそんなに何日も追いかけて仕事はどうしているんだろうと思っていました。

こういう人は単にアイドルを追いかけているだけではなく、普段の生活を隠し撮りしていたらしいです。コンサートでも昔は今と違って、スマートフォンも携帯電話もありませんから簡単に撮影することなど不可能です。こういう人たちは高額な一眼レフカメラでアイドルのパンチら写真などを隠し撮りしていたそうです。

撮影は禁止で、スタッフに追いかけられるそうなんですが、そういうときはカメラを捨ててフイルムだけを抜いて逃げていくそうです。昔はプールでアイドルが水泳大会などをやっていて、この時もきわどい写真を撮るために高額な望遠レンズを付けたカメラで撮影するそうですが、このカメラをプールに投げ捨てて逃げていくそうです。

しかし当時の一眼レフで高額な望遠レンズを付けてとなると、50万円以上するなど当たり前です。それを捨てるなど考えられないのですが、ではこの写真をどうするかと言えばアイドル写真として販売していたそうなんです。高額で販売されていてそれがまた売れるそうなんですね。高額なカメラを捨ててでまでするほど稼げるそうです。


昔の芸能人は今と違って、イメージを大事にするのであまりこういう写真に関しては訴えたりしていなかったそうです。

ファンの裏の経済活動がまさに同人誌の経済活動と酷似していたのです。
またそこで取材されていたファンたちも同人にまつわる「オタク」たちと酷似していました。ちなみに「オタク」でアイドルが嫌い人はみたことがありません。

アイドル評論家の「中森明夫」さんが、なぜ「オタク」という言葉を作ったとされるほど「オタク」に詳しかったのかがこの時、やっと理解できました。確かに根暗でキモイ、「キモオタ」はいるにはいますがむしろ熱狂的な「アイドル」のファンのほうが実像に近いです。


これらの類似点を知ったときに思い当たることがあって、それが昔のアニメファンの行動でした。まだ同人に関わっていない頃、アニメ雑誌が作られ初めて人気がブームのように沸騰していたときですが、アニメの制作現場では制作していたアニメの「セル画」が盗まれるということが良くあったそうなんです。

昔は今と違って、セキュリティがゆるいというかないようなもので、普通に挨拶して入っていくとけっこう誰でも建物内へと入っていけたそうなんですね。

これはテレビ局も同じで、今のように入館書のよなカードがないと入っていけないということはありませんでした。だから素知らぬ顔したファンが紛れ込んでいたりするそうです。


アニメの「セル画」が盗まれたものであったことまでは知りませんでしたが、高額で売られていたのを知っています。こんなもの誰が買うんだと思っていましたが、これが売れるんですね。

個人的にはこのようものには全く興味がありません。これに関してはあるビデオを見たことがあるのですが、それがこれらのアニメの「セル画」の盗難とその後の取引に関するノンフィクションの映像でした。

映像の中で顔はモザイクをかけてありましたが、当時のアニメ制作会社へ簡単に入れたと話していました。

いろいろな出入り業者がいたので、「おはようございます」と挨拶して入っていけば止められなかったし、入館の際に名前や企業名なども書かされたりしなかったそうです。

自慢げに話していた内容がとても印象的で、現在制作中のアニメの「セル画」は盗まないそうなんです。テレビ放送ができなくなってくるし、アニメーターさんなどに新たに苦労を強いれないと知ったかぶりで話していました。自分たちはアニメの「ファン」だからよく分かっているのだと胸を張って言うのですね。

では盗まなければ良いではないかと思うのですが、彼らのやっていることは立派な盗難であるという自覚がぽっかりと抜け落ちているのです。

これはアイドルの写真を売って高額な利益を得ていた連中にも共通していて、ファンのマナーであったりプロデューサーたちのアイドルの扱いなどに苦言を呈するのですが、自分たちのやっている行為に関しての自覚が抜け落ちているのです。

特に凄いアイドルファンは親衛隊のようなものを作って、隠しているアイドルの自宅を突き止めてその近くに部屋を借り、私設で行きすぎたファンからアイドルをまもるための警備員をしていました。

もちろんタレント事務所が認めたものではなくすべて自費で、ファンたちが勝手にやっていることです。ですが一番行きすぎているのがこれらの親衛隊自身であることがぽっかりと抜けて落ちている。


アイドルオタクも、アニメオタクも、同人オタクもともにこの自覚が抜け落ちているのは全く同じです。

それにたぶん始まりはいちファンの心理から始まったのでしょうが、それが行きすぎた行動へと加熱していって、さらに大きな利益につながっていくと分かるとますますエスカレートしていったものと思います。この三つの行きすぎたファンは、ともに「オタク」と一括りして良いほど似ています。



◇一杯のかけそばと電車男。



これだけの数がいて、ではどうして内部から実態を知らせるような情報の公開がなかったのかと考えたのも、この「note」での記事を書こうと思った切っ掛けの一つでした。それは決定的に、自分たちに対する自覚が欠落しているからでもあったのです。

例えばもし「オタク」自身が「オタク」のことを説明せよと言われたならば、おそらく「電車男」のような人物像を作ってくるのではないかと思えます。



「電車男」は「2ちゃんねる」の掲示板に実話として書き込まれたものを書籍化し、そこから映像化された作品です。ですが個人的に、これは実話ではないと思っています。


「電車男」の前に大ヒットした「一杯のかけそば」という作品があり、社会現象にまでなった作品がありました。ですがあまりにも物語が都合良くできあがっていることと、実話という触れ込みで引っかかるものが多々ありました。

その後、この物語は実話ではなく創作であり、作者のいろいろな犯罪歴なども明るみに出て詐欺師でもあったことなどが分かりました。

「電車男」には同じものを感じています。

作者が現れていないのではっきりとしたことは分かりませんが、「オタク」の実体を知っている人間からするとあり得ないことだらけだからです。
「オタク」たちの自己正当化というか「オタク」の都合の良いことばかりで作られているといって良いからです。
さらにいうと「実話」と銘打っていながら、作者が現れていません。


書籍の印税は2チャンネルの「ひろゆき」さんに入っていると思われているようですが、「ひろゆき」さんが公表していますが印税はひろゆきさんと作者の二人で分けているそうです。
「オタク」たちの話の中では、姿を現したくないので印税などももらっていないという美談があるようです。

おそらくですが、「オタク」が語る「オタク」の作られた虚像はまさにこの「電車男」そのものだと思えます。こういうあり得ない物語を作り信じ込むのも「オタク」の一つの特徴といってよいかと思います。


すでに「コミケ」で信じられていた話が、何一つ真実であったことがないのは他の記事のところで書きましたので、ここでは割愛します。代わりに比較的最近の、「オタク」たちが信じ込んでいた話をご紹介したいと思います。

「新海誠」監督が現れた時に盛んに言われたことがありますので、これについてコメントしたい。これは直接話を聞きました。聞いてもいないのに、色々と教えてくれました。

「新海誠」監督は「君の名は。」の大ヒットで誰でもが知る有名なアニメ監督となっています。

「新海誠」監督は2002年の「ほしのこえ」で一躍有名になりましたが、確かに一人で製作を行った短編作ではありましたが、全くアニメ業界とは関係ない人物が一人で作っていたという勝手な人物像が一人歩きしていました。

この騒ぎが気になって見てみたのですが、これは素人が作れるレベルのものではないのは一目瞭然でした。「新海誠」監督ももともとゲーム会社に勤めていて、そういう情報も秘密にすることなく公開していました。

ですがそういう情報にはまったく触れないというか、無視して勝手な人物像が作られて行ったのです。

「エヴァンゲリオン」でも同じで、今でこそ実体を伴っていますが、最初の映画が作られたときは「オタク」たちによってあり得ないほどの人気がねつ造されていました。

これらはすでに解説していますのでこれも割愛しますが、当時、「庵野監督」はアニメ雑誌やラジオ番組で「エヴァンゲリオン」の制作に関して詳しく発言されています。

友人のアニメを見ない人間からも、車を運転しているときに「ラジオ」で話を聞いたと言うものがいたのですが、それほど知られているのに「オタク」たちはこれらの情報を全て無視して独自に「エヴァンゲリオン」論を作り上げていました。


とどめは「新海誠」監督の娘さんがCMに声で出演していましたが、この時驚いたのは「新海監督が童貞ではなかった」ことで少なくない驚きが「オタク」たちの間に広がったことです。

新海誠」監督は舞台女優さんと結婚もしてお子さんもいるのですが、彼らの頭の中にはアニメ好きの素人からアニメ監督になって、気弱な童貞であるという勝手な人物像が作られて強く信じられていたのです。


これはもう致命的で動かしがたい傾向なのですが、本当のことを教えてもまったく受け付けようとしません。
この「note」に書いてある記事は全て経験したことなのですが、例えそれらを読んでも意識の片隅にすら入っていかないことは経験上分かります。

「オタク」という人種は、自らねつ造して信じ込むだけではなく、たえず自分たちを騙してくれる人物を探しているようなところがあります。これは実際に見ていて分かるのですが、「騙してやろうと」彼らに近付くと凄く良い関係を築けます。

逆に、誠意を持って接すると嫌われていやがられることは実体験として経験しています。


一度、かなり込み入ったことで揉めたことがあったのですが、この時実害が伴うほど深刻な問題がありました。色々とあったのですがこれは省きます。ですが、結局興信所を使うまでに発展してしまいました。
「虚言」をはっきりさせる必要がどうしてもあったからです。

こういうことがあってから、直接的にこういう人々と接することをやめています。実害もあって、怒りが今でもやむことはないのですが、怒ったりするのももう疲れてしまいますし、そこから何かを得るようなものはなくただ徒労に終わるだけだからです。

結論から言えば何をやっても無駄です。助けてあげても逆恨みが待っています。この「逆恨み」はいろいろなところで発生します。


正直、「宮崎勤」などいて当然と思える人々の集まりです。
ただどちらかと言えば、「黒子のバスケ」を脅迫していて逮捕された男が、満面に笑みを浮かべて警察に連れて行かれたような人間のタイプが多いです。

犯罪へと走る人たちとの決定的な違いは、「コミケ」などで居場所が見つけられるかどうかという点です。
犯罪へと足を踏み外すタイプは、「コミケ」からもはじきだされていることです。それくらいどこへ行っても嫌われて孤立するのです。「自己中心性」が極端に強いといえます。

「宮崎」もコミケ参加していた経験がありますが、「オタク」と呼べるほど同人やら「コミケ」と深く関係していたかというとはこれは違います。

「コミケ」は確かに根拠のない妄想ばかりを生み出していますが、こういう場所で満足している人間のほうが圧倒的に数は多いといえます。
それが故に、妄想を支える聖地として「コミケ」の地位は動かしがたいものだと思われます。


この違いは、精神医学では「人格障害」と「人格障害の境界例(ボーダーライン)」の違いだと感じます。

最近ですが、実際に完全な「人格障害者」を知る機会があり──オタクや同人とはまったく関係ないところで──さらにこの認識を強めています。幼児虐待や育児放棄をする人間にはこの傾向が強いです。

専門家でも異論があるのですが、「宮崎勤」は反社会的人格障害者であったと診断しても良いと思っています。


この「ボーダイランケース」の傾向にある人間にとっては「コミケ」はとても居心地が良い場所のようです。
ある意味、この「コミケ」は「宮崎」に進む道筋へと道を外さないための安全装置として役立っているような側面もあるかも知れません。

反面、「ボーダーラインケース」を増幅し固定しているような側面も併せ持っています。

こうやってあらためて振り返ってみる機会が今までなかったのですが、振り返ってみると「コミケ」と「オタク」の関係は、一種の「共依存」関係のように感じます。


「共依存」という関係は「DV」などがよく例としてあげられるケースです。
ある種の女性が暴力を振るう男性との関係がやめられないし、第三者が介入してこの関係を断ち切ってもまた同じような暴力を振るう男性と関係してしまうということを繰り返す女性に顕著にみられる傾向です。

昔からこのタイプの女性はかなりいて、いつも男運が悪いとかいうことを自分では話している女性です。

暴力があったかどうかまでは知りませんが、そんなことを話していた女性がいましたね。もちろん自分に話していたのではなく、別の人間に話していたのですが、この時とても女性の話通りに思えなかったことをおぼえています。

後にこの「共依存」の存在を知りなるほどと納得できことでもありました。

こういう女性は暴力を振るわない男性も暴力を振るうように誘導しており、それが精神医学などがそのシステムをあばくまでは一方的に男性を責めていました。今でも男性が悪いと一方的に考えている人のほうが圧倒的に多いですから。これらが解消されることはないでしょう。


同じように「オタク」と「コミケ」は「共依存」の関係にあるように思います。

何度も指摘するように「コミケ」はオタクたちの妄想によって支えられています。反面、「コミケ」はオタクたちの妄想を育てておりそれが「コミケ」の発展につながっています。ですから「コミケ」がなければ「オタク」と呼ばれるような存在も現れてこなかったかも知れません。



◇オタクと強い幼児性。


「オタク」のもう一つの特徴に、「地雷」があります。

「オタク」が時々、突拍子もないところでキレて地雷を踏んだと表現することが多くあります──何度か見て体験しています。普通の人の場合の、触られたくない部分を知らないで触れてしまう地雷とは意味が違ってきます。

通常の場合は、触れられてもある程度の我慢が見受けられます。
話を別のものへと誘導してみたり、黙って離れて行くとかの回避行動があるものです。

ですが「オタク」の爆弾は違っていて、幼児が癇癪を爆発させるのに酷く似ていると言うよりも、構造的には同じものです。
とても強い幼児性と自己中心性があるので、とにかく自分の気に入らないものには癇癪玉の破裂させるのです。基本的に、我慢と言うものができません。


昔ですが、同人誌を作る前の話ですからかなり昔の話です。
以前の職場では大学生のアルバイトに仕事を教えたり管理する仕事をしていました。

この「オタク」も大学生のアルバイトでした。「コミケ」にも良く行っており、色々と聞いてもいないのに詳しく教えてくれました。元々が特撮やらアニメやらがやたらと詳しかったものですから、向こうから急速に接近してきました。

こういう話をする相手がいなかったのかも知れませんが一方的に仲良くなって行きましたね。

我々はこの大学生たちの仕事が終わっても、最後まで仕事が残っているので少し遅れて終了となります。あるとき、この大学生が一緒に帰りましょうと待ってくれていました。軽いのりで待ってますよ程度ではなく、「待ってますからね」と念まで押していました。

悪いので急いで着替えて出て行ったのですがその大学生はいませんでした。
せっかくだからお茶か晩飯くらいは奢ってあげるつもりだったのですが、いないので他のものにきいても知らないと話します。
30分くらい探しても見つからないので仕方なく帰ったのですが、翌日、話をきくと面倒になって帰ったそうです。


彼の大学の友人に話を聞くと、他にもこういうことがあるそうです。
「オタク」と言う人種にはたえずこういうことがことがあって、約束しても信用できないという側面があります。

こういう行動がこの種の人々の日常行動です。普通ないだろうと思うようなところで切れたりします。これでは人と上手くつきあえないというのは当たり前です。

これを彼らは気が弱いからとか差別されているとか別の都合の良い正当化にすり替えて信じています。ですから「オタク」同士の関係は長く続きません。長く続けば続くほど、必ず関係はひどく悪化します。


もちろん普通の人にこの幼児性がないわけではありません。
ただそれを我慢できるだけなのですが、この「我慢」が「オタク」には致命的にできないことなのです。これが「オタク」の「地雷」と呼ばれるものです。

 
この彼の場合も就職しても長くは続きませんでしたし、他の人も同じです。
就職してもどこか仮の仕事をしているような感じで──いるかも知れませんが──仕事で有能な人間を知りません。

趣味でも極めるところまでいった人もまた今まで見たことがありません。
つまり「プロ」にも「マニア」にもなれない人種でもある訳です。


また、「オタク」という人種の特徴の一つに「熟考」してから行動すると言うことができません。これも幼児性の強さ故なのですが、なんの考えもなしに突拍子もなく行動に移します
行動力があるといえれば良いのですが、実は先ほどから説明していますように我慢ができないのと、考えが稚拙なのも手伝っての行動──暴走に近い──です。

まさに衝動的と言って良いもので、一つの例をあげれば自分が同人活動をやっていると知っている人間に同人誌の作り方を教えたことがあります。
この人間も「コミケ」に一般参加していた人間でサークル活動をしたいそうなんですね。

ですがどんなに詳しく教えても理解しておらず、ある意味、このタイプの人間の意識のなかにこういうやり方があるはずだや、または教えてもらうことで自動的に同人誌ができあがってくるかのように思っていた節がありました。
要するに同人誌ができあがるまでの様々な労力を回避したいというようなものが強く見受けられました。

これでは同人誌をつくるなんてとても無理だと思ったのですが、後日といっても、一年近くは過ぎていたのと思います──にあったら、同人誌を作るのではなく漫画雑誌の編集部に漫画原作の持ち込みをしたそうでした。

それも少年ジャンプの編集部にです。どこをどう考えたらそういう結論にたっするか分からないのですが、持ち込みをしたそうです。

当然ですが、「なんだこれは」とあからさまに呆れた顔をされたそうです。
そして漫画原作とはどういうものであるのか、書き方はどういうものがあるのから、基本的なことを教えてもらってかえってきたそうです。

正直、ジャンプ編集部の誠実な対応に頭が下がる気がしました。門前払いをされて当然なのですが、仕事とはいえよく相手をしたものだと感心しました。
これが小学生や中学生くらいの年齢ならばあるかも知れないと思いますが、この時この人の年齢は二十代の後半にさしかかっていたはずです。

原作の体裁すらなしていない落書きを平気で持ち込む心理が理解できませんでした。人に見せるのですから、せめて体裁くらいは整えて持ち込むのが当たり前だと思うのですが、この当たり前の常識が「オタク」たちには欠落しています。
恥ずかしくないのかとも思いました。

この話にはまだ後日談があって、それからまた時間をおいて、今度は別の絵の描ける人間と一緒にやってきました。自分の原作を漫画化したそうですが、その原稿は見ませんでしたが見るまでもないものだと思います。

その後、何一つ話を聞きませんので持ち込みや投稿などでも相手にもされなかったものだと思います。

この時、ちょうど同人誌の制作中で八割方完成していました。
その原稿を見せてやると、原稿が汚いのではないかと言い出す始末でした。
版下原稿というものはトーンが入ってあったり、吹き出しの台詞を仮止め用の接着剤でワープロで打ち出したものを貼り付けたり、薄く印刷時の指定を──ブルーの色鉛筆で書くと印刷時には映りません──書いてあったりと汚いものです。

同人の場合は時間に余裕があるからまだましですが、週刊なり月刊なりで連載をもっているプロの漫画家の版下原稿などはもっと汚いものです。

どうやら印刷物となって製本されて、店頭に並んだ雑誌のままの原稿が版下原稿でも普通であると思っていたようです。そんなわけあるかなのですが、それが分からない。

これも当たり前以前の常識なのですが、それも知らないとんでもない低レベルの会話にぐうの音も出ませんでした。
詳しく説明する気力も失ってこの時はなにも教えませんでした。

こういう人たちが同人誌を作って「コミケ」に行くのですからだいたいがお察しいただけるものと思います。「上には上がいる」ではなく「下には下がいる」とんでもない世界でもありました。



ここで少し補足しておきます。動画では「ボーダーラインケース」は女性特有のように解説されていますが、これには個人的に異論があって、女性文化と男性文化の違いといいますか、性差が大きく関係していると思います。

「note」の記事では何度も指摘していますが、昔から──コミケに関しては今では男女比が半々くらいになっていますが──同人は女性人口のほうが多いのです。


女性の場合は何をするにも、他人を巻き込みます。とにかく人を使ってなにかをします。個人で完結することは殆どありません。

先の「DV」の例だと、知り合いだと誰彼かまわず親しくなると必ず同じ相談をするということもします。だからまったく関係ない自分も、間接的に話を聞くことになるのです。

とにかく話をきいてくれる人間を探します。映画にもなっていますが、「痴漢冤罪」は本当に多いと思います。


何度か目撃しているのですが、ある施設でトイレが満員の時に、女性──オバサンですが──男性トイレに入ってきました。この逆もあるのですが、我慢できずに女性トイレに入った男性は大騒ぎされて警備員まで呼んでくるほどでした。

対して男性の場合は、その場にいた男性たちは良い顔はしませんがあまりというか殆ど大騒ぎしません。

友人に痴女に会った経験のあるものがいるのですが、これも大騒ぎしたりしません。実際にそんな経験をするとアダルトビデオのように「得した」という風にはならなくて、「気持ち悪い」と感じるそうです。

対して女性の場合は、痴漢に遭ってなくてもあった経験があると言うそうです。女友達たちが皆痴漢された経験があるのに、自分だけないと言うのが嫌なんだそうです。
こういう性差による文化的な違いが強くあると思います。

これらの例を取り出し始めたら枚挙にいとまがないほどです。また心療内科などに受診するのにも女性は抵抗のない人が多く、ひどい人はカウンセラーなどを梯子するような人までいます。そもそも自分の話を聞いてほしいという側面が強くて、治す気がないといえるでしょうね。


これに対して男性の場合は、主に孤立していく場合が多いです。また心療内科などに受診する人も少ないです。

自分が知っている「オタク」たちは殆どが孤立していきました。ですがどうして自分が孤立してしまうのかが分かる人間はいません。全ての責任を他人や他のせいにしています。

正直、同情の余地を感じる場合がなくて、当然の結果だといえる場合が殆どです。

基本的に、「ボーダーラインケース」は男性も女性も数としてはあまり変わらないのではないかと個人的には感じています。この傾向の強い人はとにかく自分に関することは過剰に反応します。いわゆる自意識過剰性ですが、思春期の頃に誰もが経験する状態をずっと保持している感じがします。

それが故に先に指摘しましたように、誰も差別していなくても何かあればすぐ「オタク差別」だと騒ぎ立てることになります。

これは一種の被害妄想──関係妄想、または関係念慮とも言われます──に近いのですが、この心理の裏には「オタク」というものにある種のエリート意識のような自意識過剰さが潜んでいるからです。

「オタク」でない人間が「オタク」とある程度はなしをすると良く言うのが、「エリート意識」を持っていると感じるそうです。

実際にそんな意識が潜んでいて、世の中は何時までも「オタク」に注目していると根拠なく思い込んでいます。「オタク」は自分たちを特別な存在だと思っているというよりも、そう思いたがっている人種でもあります。


「オタク」は「知的エリート」というように持ち上げてくれる人物をとても高く評価して大事にしますし、たえず探しているようなところがあります。
それが人物でも出来事でも良くて、「クールジャパン」という言葉でも良いのです。

とにかく自分たちの好きなものが高く評価されることで、「オタク」という存在自体が高く評価されていると思い込みたいのです。
そういう人たちとって、「コミケ」はまさになくてはならない聖地なのであり、自意識過剰な妄想を維持するための一つの装置といえるものでもあると思います。


最後に「コミックマーケット」に参加経験がある人が全て「オタク」ではありません。

ごく普通に「同人誌」を楽しんでいる人が沢山いることも確かなことです。

「オタク」とはこの「普通」ではいたくない人々のことで、自分を「特別な存在」であると思いたい人々でもあるからです。



◇追記。


この記事を完成させていた時、「京都アニメーション」の放火事件の第一報がありました。

書いていた内容が広い意味でのアニメ関係だったものですから、また今回はアニメ制作会社のことも少し書いていますので、思わず作業の手が止まってしまいました。

死者が30名を超えており、あまりの惨事に驚いています。
被害が大きすぎて早期の復帰は無理でしょう。自分がもし「京アニ」の人間だったとしたら気が遠くなるような被害の大きさです。


おそらく今は、「京アニ」側の方々はなにをどうすれば良いかも分からない状態ではないかと予想されます。

被害が大きすぎて、簡単にお悔やみを述べて良いのかどうかも分かりません。失われてしまったものがあまりに大きすぎます。
亡くなられた方々の無念を思うと、幾度ご冥福をお祈りしても足りないくらいです。



どうしてこうなってしまったのかと、「京アニ」に関してなにかトラブルのようなものがあったかと考えてみたのですが、思い当たる噂のようなものもなにもありません。
個人的な印象ではアニメ「けいおん!」を制作した会社であることくらいです。

「自分の小説をパクられた」ということを供述しているそうで、蛇足ですが少し「パクリ」事件に関して付け足させて頂きます。

ただしあくまでもこの件とは全く関係ないけれどと一言断った上でですが。

こういう自分の作品が「パクられた」という事件は、創作の世界ではずっと昔からある問題です。もちろん実際に作品を「パクリ」によって作ったものもありますが、だいたい人間の考えるものは皆同じようなもので、「パクリ」がなくても同じような作品になることは多々あることです。

記憶に新しいところでは「宮藤官九郎」さんの「土下座の王様」に盗作疑惑を、土下座漫画「どげせん」「どげせんR」作者のRIN先生が盗作されたとして抗議の意向を示していたことがありました。

ですが確か、娘さんからバラエティー番組で「関東土下座組」と言うのがもっと前にあって、ご自分だけが土下座をテーマにした作品を作っていた訳ではないといわれて冷静になったとかです。
初めは凄い剣幕でしたが、最後はご自分でも謝罪しておられました。


逆に本当に盗作していたことが分かった事案も存在します。

少し古い作品になりますが、「松田聖子」さんの主演作品だったと思います。シナリオの専門雑誌に掲載もされてもいたので探せばあると思いますが、本が多すぎて見つけるのが困難なので作者名は省きます。

「松田聖子」さん主演の単発のドラマだったと思いますが、この脚本を担当したシナリオライターが、自身が講師を務めるシナリオ学校の生徒の脚本を盗作して制作していたことがドラマが公開されてから発覚しました。

このドラマを見ていた人が自分の友人が書いたシナリオと酷似していると当人に話し、その後事実確認してシナリオを担当した脚本家も盗作を認めたことから原案がこのシナリオ学校の生徒の名前になっています。
この方は今何をされているかは知りませんが女性の方でした。


映画監督も含めてですが、この盗作問題はなくならないだろうと思います。
本人が気付かないうちにやっていたと言うこともままあることで、昔のことですが、ラジオの深夜放送で亡くなられた「かまやつひろし」さんが近い話をされていました。
もう40年以上も昔の話ですが。

それに二次創作に異常に厳しい「ディズニー」ですが、「ジャングル大帝」のパクリとしか思えない、「ライオンキング」まであります。

とくに今は自分の作品をネットで公開するなどとても多いですから、そういう風に考える人は凄く多いのではないかと思われます。

ましてや「小説家になろう」などのライトノベルの投稿サイトからデビューしてアニメ化されるなど凄く多くあって、どれも似たような内容であったりします。

今の深夜アニメは原作が元々ネット発信であったものが多いので、少し妄想的に物事を考える人ならば自分の作品をパクられたという人もわりといると思います。

これは全てあくまでも想像ですが、こういう人が大きく道を踏み外してと言うことも考えられなくもありません。用意周到に包丁やらも準備していたようで、強い恨みがあったものと思います。

以外かも知れませんが、ある種の人格障害者はこういう恨みは──根拠がなくても、強い逆恨みを持っている場合が多い──とても強いものを持っています。

以前にあった、小学校へ侵入して生徒たちを刺し殺して回った人物もこれに当たります。小学生に対して直接恨みがあった訳ではありませんから。
あれほど凄惨な事件は、強い恨みなくしてはできないと思います。

今これくらいしか、考えが及びません。
この事件の真相は、続報を待ちたいと思います。

 ………。


後日の報道から分かったことは、やはり投稿サイトが関係していることでした。

「公募」の存在は知らなかったのですが、京アニは2009年から京都
アニメーション大賞というものを設けていたようです。アニメ化や文庫化を前提に小説やシナリオを公募してきたようで、この「賞」レースに「青葉容疑者」も応募していたようです。

「京アニ」作品は「けいおん!」などの学園ものが有名です。
京都アニメーション大賞として応募してくる作品も、やはり学園ものが
多くなっていたのではないかと想像できます。

学園ものにせよ異世界ものにせよ、だいたいが似たような世界観ですので
どの作品も結果として似たようなものになってくるとくると思います。
正直、広くライトノベルを眺めてみても同じような設定、同じようなキャラクター同じようなストーリーと言うものが多くを占めています。

そうなってくると、自分の作品が、設定がパクられたという人物が出て
きてもおかしくない気がします。そういう考えをもっている人物は、一人だけではないかも知れません。犯罪に至るまで、逆恨みを強くつのらせる人物が他にいなかっただけで。

ただ今の時点での情報だけで言うと、「青葉容疑者」がオタク的人物であったかどうかは分かりません。どちらかというと、普通の犯罪者に近いタイプであったと思います。

犯罪に走る人間も「逆恨み」傾向が強いです。そして後先考えずに衝動的に行動します。「オタク」も衝動的に行動する傾向がとても強いのですが、計画的なことはどちらかといえば苦手に属します。

ネットで自分の作品がパクられたと発信するとか、何かのイベントを妨害するために脅迫するとか、そういう単刀直入的な行動が多くて、今回の事件のように恨みを晴らすために下見までしてしっかりと準備するかとえばこれは少ないと思いますね。

「オタク」ならばもっと自己顕示的な行動に出ると思います。どちらにせよ、模倣犯はこれから沢山出てくることになるでしょう。


この追記は後で削除するつもりのものでしたが、だいたいの「プロファイル」が当たっていたことから加筆して残してくことにします。また、「オタク」についても思い出すことがあったのでついでに付け加えておきました。


 

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