『ジーザス・クライスト=スーパースター』を読み読み解く
今回は舞台観劇の感想回。
ということで劇団四季による『ジーザス・クライスト=スーパースター』を観てまいりましたので、今回はその感想を語りたいと思います。
ちなみに今回は「京都劇場」にて4月20日(土)の昼の部を見てきました!
『ジーザス・クライスト=スーパースター』について
あらすじ
そもそも「JCS」とは!?
今回鑑賞してきた『ジーザス・クライスト=スーパースター(以下JCS)』とは何か?
先ほどのあらすじでも紹介したが、元ネタは「聖書」だ。
そしてそこからイエス・キリスト(ジーザス・クライスト)の最後の七日間の様子を描くミュージカルだ。
ただし普通のミュージカルとは違い、この作品はいわゆる字のセリフがない。
つまりミュージカルというよりは、全編歌唱で行われる「オペラ」だ。
しかも、それがロックで演奏される。
ということでこの作品は正確には「ロック・オペラ」だと言える。
さて、この作品の核となるストーリーや楽曲は、アンドリュー・ロイド・ウェバーが作曲、ティム・ライスが作詞をそれぞれ担当した。
今となってはミュージカル界の巨匠である2人だが、この作品のアイデアを生み出した時、2人は名も知れない若造であった。
そのためアイデアを売り出しても、誰にも相手にされこともなく、これを舞台化させることなど夢のまた夢だったのだ。
そこで2人は考え、先にこの作品で演奏される楽曲を流行らせることを決めたのだ。
手始めにレコードを発売し、見事目論見通り楽曲が流行。
結果これまで全く相手にされなかったブロードウェイで1971年「JCS」は公演されることになった。
そしてたちまち話題になりロングラン公演されることになったのだ。
日本でこの作品が公演されるのは、1973年と比較的早い。
当時の劇団四季演出家であった浅利慶太が、ブロードウェイで本作を鑑賞し、感銘を受け1973年の中野サンプラザの柿落とし公演として上映を決め『ロックオペラ イエス・キリスト=スーパースター』を初演した。
しかしこの作品は日本独自の色が非常に濃いのも特徴だ。
簡単に言えば音楽演出以外大幅に独自の要素を入れたのだ。
例えば役者の顔に隈取りを行うこと、衣装は白のジーンズを着用するなど大幅に改変され公演された。
ちなみに、今ではこの演目は『ジーザス・クライスト=スーパスター【ジャポネスクバージョン】』として上演されている。
そして、これが大ヒットをし日本でも人気の演目になった。
それから3年後、1976年演出を大きく変更、隈取りメイクなどをやめ、原作の世界観に合わせて再構築された『ジーザス・クライスト=スーパースター【エルサレムバージョン】』が公演され、こちらも大人気を博すことになる。
という劇団四季の長い歴史の中でも人気の『JCSエルサレム版』を見てきて、どう感じたのか?
それをこれから語っていきたいと思います。
聖書最大の謎に迫る
この作品は聖書、いわゆる「新約聖書」の中の福音書、中でも「受難」と呼ばれる記述を原作にしている。
簡単に言えばイエスが弟子のユダに裏切られ、最後の晩餐を行い、そしてユダヤ人に逮捕される。
その後裁判にかけられ「鞭打ち」に処され、その後「磔刑」にされ殺される。
今作品はそこまでを描いている。
この「聖書」でのエピソードで最も謎なのは、「なぜユダが裏切ったのか?」だ。
「JCS」ではそんな「ユダ」をイエスと並んでもう1人の主役として描いている。
さて今作のユダの解釈は中々興味深いものになっていた。
というのも明らかにユダはイエスを「愛しており」つまりBL的な匂いさえ感じる感情を抱いていた。
しかし作品の冒頭では「自分が愛していた頃のイエスはもういない」とユダはすっかりイエスへの失望を口にしている。
自らを「神の子」であると宣言したイエス。
それに対してユダは、「それはローマ帝国やユダヤ王国から反発を買う」と忠告するが、聞く耳を持ってくれない。
そればかりかイエスは明らかにマグダラのマリアを贔屓しており、「元娼婦の女を贔屓にするな」つまり「立場上エコ贔屓をすることは良くないだろ」という旨の抗議をする。
さらにはこの時代高価だった「香油」を明らかに、無駄使いしているイエスやマリアを見て「それで貧困に苦しむものを救おう」と提案しても聞いてもらえず不満を募らせていく。
今作では先ほども言ったように明確にユダのイエスへの愛が描かれており、「教えを説くものとしての立場」への不満と、マリアとイエスの関係性への不満を募らせているとも言える。
そして一方イエスはというと、冒頭からまるで「自分の脳みそ」で考えようとしない、答えをイエスに求め続ける信者に付き纏われ、持ち上げられていく。
「何が起きるのですか?」とイエスに縋り付く滑稽な姿は、まるで思考停止をしたゾンビのようにも見える。
何も自分で考えようとせず、答えを求める姿に、イエスは呆れているようにも描かれる。
それが極限に達したのがイエスの「祈りの場所」を、商店のようにしている連中に「ここから出ていけ」と叫ぶシーンも見どころの一つだ。
我々のイメージするイエス像からすれば、声を荒げる様子など想像もつかないからだ。
ある意味で人間臭い一面を描くという意味では、今作のアプローチは「ブッダ」を「人間」として描いた手塚治虫の「ブッダ」と近いものを感じたりもした。
このようなこともあり、信者が本気でイエスのことを信じているのか、ユダはそのことも気掛かりであり、そしてこうした状況にイエスが疲弊している。
そのことにも気づき、ある意味で「イエスを愛しているが故に裏切る」ということを冒頭から描いていると言える。
意外と拾われる福音書のエピソード
今作は冒頭でイエスとユダの複雑な関係性を描いており、そこにフォーカスをしているため、その後ユダの裏切りの決断などが時間を割かれて描かれる。
そのため個人的には「最後の晩餐」の「ワインと血・肉とパン」の説法をしても信者たちは「ポカン」としており、理解されてないと落胆する姿。
ペドロの「否認」の件の予見など、聖書の有名エピソードをきちんと描いていることに驚かされた。
特にペドロの件はイエスの死後、つまり作中から後のエピソードで彼が「イエスの武勇伝」をある意味で伝説化させ「宗教化」つまり「キリスト教」として広めていくことに貢献する人物だ。
ただし、今作では割愛しても構わないエピソードだったとも個人的には思う。
その後、有名なユダのイエスへの接吻。
「裏切り者の口付け」が描かれイエスがヘロデの元へ送られる。
ここでのヘロデのあまりにも「下品」な感じなど、演奏される楽曲も相まって、「どうせお飾りの存在ですよ」と自らの地位を認め、だったら豪遊してやろうと、ある意味でイエスが最も嫌うであろう思想を全面に押し出している様子も見応えはバッチリ。
個人的に、ここの本当に下品な感じがすごく良かった。
その後イエスは酷い扱いを受けていることにユダは心を痛め、自殺をする様子が描かれる。
ここも舞台ならではの演出になっており、原作通りの首吊りにも見えるし、抽象表現として彼が罪を犯したために地獄へ引き摺り込まれるようにも描かれていた。
磔シーンとロックンロール”ユダ”の登場
その後、イエスはエルサレムの街で「鞭打ち」を受け、血みどろになり、自分で自分の十字架を背負わせ、「ゴルゴダの丘」へ向かっていく。
そこで歌唱されるのが、おそらくこの作品で最もキャッチーな「superstar」だ。
先ほど死んだユダが、『北斗の拳』『マッド・マックス』世界から飛び出してきたような、ある意味で「ロックテイスト」なファッションで登場する。
これまで見てきた、ここが2000年以上前のエルサレムである、そうした世界観をぶっ壊す演出だ。
ここでユダは、「お前はどうしてこんな時代に、こんなことをするのだ」とイエスに問いかける。
この「鞭打ち」からの「磔」になり「死」を迎えることで、イエスはついに現代にまで影響を与える、特別な存在になったとも言える。
つまりこの行動で、イエスは人間の「原罪」を全て背負うと宣言したからこそなのだ。
「どうしてこんなことをするのか?」と、「テレビもないこんな時代に、何を考えているのか?」ここでは、ユダがイエスの心情が理解できないことを歌っている。
つまり死後の世界から愛したイエスを見ても、その行動がまるで理解できないのだ。
しかも、イエスを「磔にせよ」と叫ぶのは、彼を元々信奉していた聴衆だ。
つまり、イエスに「教えてくれ」「病気を治せ」「怪我を治せ」と群がっていた連中は、手のひらを返し、彼を「殺せ」と叫んでいる。
ちなみにここは作中でも語られるが、この地を収めさせるために派遣されたピラト総統は、彼をどの「刑」でも罰せられないとしていたが、聴衆の声で彼を裁いた、つまり「死刑」にすることを決めた。
この辺りは「何も考えない聴衆」の愚かさを全面に描いているとも言える。
そして、このことをユダは恐れていたのだが、それが現実に起きてしまったとも言える。
そしてイエスは磔にされ、その命を全うし、「原罪」を背負い死ぬまでが描かれる。
意地悪な言い方をすれば、こうして「劇的な死」を迎えたことで、彼は死後2000年以上経った「現代でもスーパースター」として、信者=ファンを世界中で抱える存在になったとも言える。
2000年前エルサレムでスーパースターだった男が、なぜ今もスーパースターなのか?
それは一般人にはわからない「スーパースター」ならではの考えがあり、それは誰にも推しはかることが出来ないということを本作では描いているのかも知れない。
個人的な読み解き
今作は「スーパースター」と、そのファンの関係性という関係から見ても面白いのではないか?
個人的な読み解きとしてはイエスの一番のファンであるユダ。
彼が自分が好きだったイエスは「昔はこうじゃなかった」と、ユダはある意味で懐古厨的な存在だったのではないだろうか?
今でもアイドルやアーティストの路線が昔と変わると、「昔の方が良かった」とか「方向性がおかしい」とか批判されたりもする。
この関係性がイエスとユダにも当てはまるのではないか?
そう考えるとマリアがイエスに近づいたのも、ファン心理としては許せないだろうし、彼女を恨みさえするだろう。
また、この作品はロックがベースだが、例えば1970年代ロックスターのジミ・ヘンドリックスやデュアン・オールマン、ジム・モリソンなどが亡くなったこともあり、スーパースターの死について考える機会も多かったことも、この作品の成立に大きな影響をしているのかも知れない。
応援していた著名人の少しの変化が許せず、ファンが誹謗中傷をし、それに苦しみ自殺をするケースも現在でもある。
イエスは「死」を覚悟はしていたのかも知れないが、それでも彼を「殺した」のは聴衆、つまりは元ファンな訳で。
そういう意味では、現代でも古びないテーマを描いているとも言えるのではないだろうか。
舞台として
さて、ここからは「舞台」としての観点から最後に振り返りたい。
今回はこれまで鑑賞してきた四季の作品で最も舞台変化のない作品だった。
このように奥から手前に傾斜のある舞台。
ここで基本的には照明の光の色などを変えて、屋内・屋外などを表現していた。
そういう意味ではこれまでのどの作品よりも「観客の忖度レベル」が高いものが要求されるということだ。
ヘロデ王のシーンでの絨毯、イエスの十字架などは大掛かりなものとして出てくるが、基本的にはそれだけ、あとは小道具のみというシンプルな作りだ。
逆にいうと、だからこそ全国上映ツアーをこの作品は組める。
『バケモノの子』『アナと雪の女王』などは、セットを作り込み、風景をスクリーンに投影したり、舞台そのものがダイナミックに稼働することで世界観を表現しており、それらは「どこでもできる」ものではない。
「常設会場」があるからこそ出来るのだ。
ただし、そこは四季クオリティで、物語が始まればセットが変化しないなど考える暇もなく、世界観に没入させてくれたし、舞台の上に「世界を見立てる」という舞台そのものの原初の楽しみのようなものを今回は感じられたとも言える。
今回は二階席から俯瞰で舞台を見れたので、今度は一階席から見てみたいとも思い、京都でやってるうちにもう一度ということで、チケットを確保してしまった。
なので、一階席からの鑑賞で気づいたことがあれば、追記したいと思う。
まとめ
ということで「JCS」
鑑賞前に予備知識は入れず鑑賞したが、非常に見応えのある作品だった。
鑑賞後パンフレットの熟読、できる範囲での聖書との比較。
そして「JCS」の楽曲を聴くことで、非常に理解が深まった。
だからこそ2回目にいくことを決めたとも言える。
ここまで鑑賞してきた「四季作品」はとはいえ「ディズニー」原作だったりするので、ストーリーの理解も一度で深く行えたが、今回はこのブログを書くアウトプットなども含めて、咀嚼することで理解できることも多かった。
こうした作品見逃すといつ再演されるかわからないので、京都に来れる方、これから全国ツアーで地元での公演が予定されている方。
ぜひ鑑賞することをおすすめしたいと思います!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?