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きみが「わからない」のは「わかる」を理解していないからだ。

「わかる」とは、どういう感覚なのだろう。
ぼくたちは、説明を聞いて「わかった!」と言い、話をしていく中で「腑に落ちた」こともある。
会議の議論を聞きながら、何を話しているのか「わからない」と言い、彼や彼女に、「なにもわかっていないくせに!」と言うこともある。
ワールドカップについて詳しく話す人に、サッカーのことが「わかる」人だと思う。いい絵だ、いい壺だとわかる人もいれば、わからなくて騙される人もいる。

この「わかる」「わからない」という感覚はいったいどういうものなのか。
どんなときに「わかる」と思い、なにがあると「わかる」ことができるのか。
「わかる」とはどういうことか』という本は、記憶障害や失語症、認知障害を専門にする神経内科の専門家が、このわかっていそうで、わかっていなかった「わかる」を「心の動き」として解説する1冊だ。

ぼくは「わかる」がわかりはじめてから、「わかる」体験がより楽しくなった。わかりやすさとはどういうことなのかがわかった。「わかる」ためにはなにが必要なのかがわかった。「わかる」ことが再認識できた。
体験が以前よりも深く感じられるようになった気がして、毎日が楽しくなってきた。

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ただ、読んでからすぐに、本書の感想を書けなかったのは「わかる」ということが、まだ心の中で整理できていなかったからだ。「わかる」という状態になっていなかったからだ。

それが急に、このツイートをみたときに、「腑に落ちた」感覚になった。「わかる」がわかり始めた。「わかる」現象そのものだと思ったからだ。

「わかる」とは、知覚的に「分けることができる」ことだ。あの雲の形と、あの雲の形の違いがわかる。音の違いがわかる。この文章を、読むことができているのも、ひとつひとつの文字を区別できているからだ。ぼくたちは視覚だけでなく、音も、においも、触覚も、いろんな感覚からの情報を心象としてまとめ、その区別ができるようになることで、わかることができる。

「わかる」とは、経験と知識、言語体験によってできる「心象」の網でとらえられることだ。「おはよう」という音の意味がわかるのは、音の区別と、意味の記憶を繋ぐことができるからだ。ぼくが、大腸菌と酵母のコロニーがわかるのも、視覚的な情報と、言語的な知識、におい、を区別し同定することができるからだ。

@kantoshoji は、毎日トイレ掃除をすることで、トイレどうしを区別することができた。行為の違いが区別できるようになった。効果の区別もできるようになった。そして、「単純な仕事こそクリエイティブだ」という言葉をわかりはじめた。

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読書会も、実際に自分でつくりはじめて、いろんなことがわかった。
参加者にどんな不安があって、それをどう解消するか、どんな空間でどんな音楽だとリラックスできるか、どんな問いがあると感想を言いやすいのか、どんな進行をすると目的を達成できるのか。
実際につくってみると、こんなところまで設計が必要だっていう細かさがわかってきた。細かて丁寧な設計によって、よいものに近づくのだとわかった。このわかった感覚は、読書会はこういう場という知識だけでは、到達しないものだった。

イベントやワークショップに参加したとき、以前とは違う視点がある。より細かく、同じ角度から、違う角度から感じている。ちがいがわかるようになったというと偉そうだけど、以前よりは区別できるようになった気がする。

その感覚は、イベントだけでなくて、例えば書籍や、さっきまでいたカフェにも広がる。この構成にしたのはどうしてだろう、デザインはこういう理由なのかな、カフェの音楽は確かにリラックスるよな…と、より詳細に世の中を見ることができるようになった。

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「あ、わかった!」

ぼくは、「わかる」体験が好きだ。「わかる」ときのスッキリする感覚や快感がたまらない。世界が広がるような、世界を発見できるような、その感覚にワクワクする。
だから、「わかり」たいと思う。人も、物事も、思いも、感情も。
できるだけ、深く、細かく「わかり」たいと思う。


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