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新たな進化

 体の大きな上司が、年上の男をともなって部屋にはいってきた。部屋には数名いたが、それぞれに仕事を割り振り、自分には実験設備に来てほしいということだった。彼は「実験」という言葉を強調していたが、そこには「実験ではない」という意図が隠されていた。
 実験設備は、大きな講堂に金属の網を張った区画があり、その中に縦横一メートルほどの地下に向かって斜めに延びた空洞があった。先ほどの年上の男が先に入ると、彼の姿は消えていった。上司は腕時計をみながら私を促し、しゃがみながらその穴に入っていった。徐々に天井は低くなり、しゃがんでもいられなくなり、ほふく前進に切り替えた。
 遠い出口から微かな光が見えてきて、疲れた腕を一旦休ませた。この狭さでは上司が後続するには難しいだろうと思っていたら、既に彼は私の前方を進んでいて、彼の靴が左右に揺れていた。胴体に対して足が細かったのだ。
 長い穴を過ぎると曇り空のもとに沼地があり、先ほどの「実験ではない」という意図がこれだったのかと知った。上司は小さな模型のような姿になっており、アニメに出てくるようなつやつやして体にぴったりした服を着ていた。そして既に上司ではなく、その沼に生息し、そこで独自に進化した生き物になっていた。
 彼を解説する老人が現れ、数百年前の戦争を避難するためにここにやってきて、沼に浮くために胴体が丸くなり、水面を進むために表面がつやつやになったということだった。アメンボの原理だった。
 私は小学生時代に理科の実験で水の上を滑る物体を思い出していた。
 彼と同じ形状の数名が沼の上を腹ばいになって軽やかに滑っており、私は高台から彼らが舞うように進む様子を見ていた。周囲の影でよく見えなかったが、沼の水は青く透明で、爽やかな気分になっていた。
 彼らは時折口を開けており、そうすることで水面の生物を摂取していた。その様子を拡大した映像のように見た私は、蚊だったら嫌だなあと思ったが、先ほどの老人の手のひらには、ミジンコのような赤い生物が動いていた。それらは水面を浮遊するので、食べるには水面の腹ばい走行が適しており、そのように進化したのだという話をしてくれた。
 私はここが実験設備ということを思い出し、高台の崖っぷちにある地下への通風口を発見した。そこはテントのような覆いがあり、その穴に入れば滑り落ちるだけで外に出られることは分かっていた。辿り着くのに苦労したのは、沼地に直接出るための通路だったのだ。私はその通風口にするりと入り、滑走するように落ちていった。
 そうして明るい出口が目に焼き付くと同時に、私は、連中と同様な湖を腹ばいで軽やかに進む生き物になっていた。顔に水しぶきがかかるが、まつげがワイパーのように動いて視界が広がっていった。


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