見出し画像

「生きてる意味」は身体的な感覚にあるのかもしれない

僕の人生は、大変なものだった。

虐待やいじめがあったり、自殺未遂で入院したり、脳腫瘍で入院・手術をしたり。生きてることについて、嫌でも考えざるを得なかった。

「どうして自分は生きているのか」

自問自答を小学生の頃から繰り返し、しんどい日々は何年も続くことになる。

そして、高校生のとき、ひとつの結論を出した。それは、「人生に意味なんかない、ただ産まれたから生きて死ぬ。それだけだ」というもの。

それを長いこと、僕は採用してきた。何十年と、そういうものだと考えてきたのだ。

積極的に死へ向かうことも無ければ、生きることを楽しむつもりもなかった。ただ、瞬間を積み重ねてきただけで。

けれど、思い返せば、いつでも傍に「僕に生きていて欲しい人たち」がいた。この人たちの影響は大きい。
なぜなら、「僕が死んだら、この人が悲しむから」と思って、生きることを選べたからだ。

傍にいてくれた人たちと一緒にいることは、決して楽しいだけじゃなかったけど、この繋がりが僕を生かしてきた。

大学で孤立しても、実家に帰りたくなくても、居場所が見つからなくても、誰かの傍にはいられた。ひとりとだけは繋がりがあった。

完全な孤独にならなかったから、僕は死んでない。

今まで親密な仲になった人たちとの関係が、良いものだとは言えないけれど、なんとかやってこれた。

今は信頼できるパートナーと暮らしている。

パートナーと暮らして、2年半くらいになった。今までで一番、穏やかな生活だけど、僕には精神疾患がある。動けないときも、動き過ぎるときもあって、コントロールが難しい。

けれど、この生活になってから、こんなに楽な生き方があるのかと思っている。家にいることが、人といることが、辛くない。身体が軽い。

パートナーは、僕のことを殴ったりしないし、不機嫌さをぶつけてくることもない(不機嫌になることはある)。無理強いやマウントをとることもしないし、ネガティブな発言自体が少ない。

僕は、やっと落ち着ける生活になった。もう30歳を超えた。早いか遅いかはよく分からないけど。

そんな生活の中で、一昨日、唐突にこう思った。

「生きてる意味ってあるんじゃないか」と。

そのとき、自分という存在が身体の中で変化していることを感じた。それは、言葉にするのが難しいけれど、固まっていたものが流れる水になったような、身体的な感覚。胸の下あたりで、流動体になったことを感じた。

理屈で説明できることよりも、受けた感覚をそのまま持ち続ける方が重要な気がする。
そう思うと、生きてる意味は言葉にするものではなく、僕がここに立っている身体的な感覚にあるのかもしれない。

多くの人は、当たり前のように立ち上がって歩くけど、それは当たり前ではない。歩けなくなったことがあるから、そう思う。

日常的に、立ち上がったときの感覚を感じることなんてないけれど、立ったときの感覚こそが「自分の存在がどんなものであるか」という質問に対する回答そのものなのではないか。

生きてる意味は、存在そのものは、ただ立ってるだけの身体的感覚にあるのかもしれない。

精神的に落ち着いてくると、身体が楽になるという経験もしたけど、身体が楽になったから精神的に落ち着いた可能性もある。
僕たちは無視しがちだけど、精神的な面と身体的な面は繋がっているのだ。

もっと言葉にできることも、できないことも、自分の中にあると思える。生きてることは、ただの虚無じゃないと思える。人生は無駄じゃない、過去はゴミじゃない。

もう一度、生きてる意味を探したい。

自分の人生を諦めたくない。
今はそう思える。

100円からサポートというかたちで投げ銭ができます!面白いな、いいなと思ってくださったら、ぜひサポートしてください。活動費にさせていただきます。よろしくお願いいたします。