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本は勉強のためなんかじゃない!

気づけば、いつも本を手に取っていた
そんなわたしにとって本は決して人に言われて嫌々読むものではないし、いろんな人に語られてむしろ遠い存在になってしまうものではない
「ゆめちゃんは本をいつも読んでいて偉いね~」なんていう言葉もきらい。
その言葉を口にした人にとって、本は学びを得る高尚なもの、という位置づけであることも裏返しのような言葉だからだ。

いつからそんな風になってしまうんだろう

絵本はだれもが楽しんで読むものであるという位置づけが共有されているにも関わらず、絵本を卒業し、本に進むと一気に学ぶという側面が強く打ち出される。

ゲームと本のなにがちがうんだ、どっちもただ楽しいだけだと思うのに…と子供の時から思っている

はじめて絵本ではない本を買ったのは、エミリー・ロッダの「フェアリーレルム」。幼少期を海外で過ごした私にとって、海外文学の世界観はなじみ深かったし、妖精とかユニコーンとか小人とかが大好きだったのだ。
そんなたのしいばかりの本でも、人から見ると本を読むえらい子という観られ方になってしまう。
それから私の小学生生活は、昼休みは学校の図書室に走り、毎日本を借り、週末になると少し大きめの図書館に通い、月に一度お小遣いを使って厳選した一冊の本を買う、というものだった。
本屋さんはたくさんの好きなものに囲まれている天国みたいな場所だった。

中学校になって児童文学を卒業し(文字通り自分的に面白いものは読み切った)、文学に入門した。すると余計に小説の幅も広がり、はてしない楽しい世界に没頭していた。
わけだが…中学三年生の時。受験到来とともに本を断ちふと気づいたのだ。
スクールカースト的にかなり地味な存在になっていることに。
あれ、わたしって、全然だめだめだ!と思ってしまった。

気づいた。
気づいた私は俗世に魂を売ったようになってしまった。

というのも、自分がダサい存在であることに耐えられなくなってしまったのだ。なまじ本の世界でかわいい子にもかっこいい人にもヒモにも引きこもりにもなり切った経験(経験ではないが)から、世の中でどういう印象を持たれるかが、どれほど人生を変えるかを痛感していた。
かわいい子はやっぱり有利なのだ。

バイバイ、読書。ハロー、現実世界。

高校大学時代は、本当に本を読まなくなった。
年に10冊くらい。
年に200冊くらい読んでいたそれまでのわたしからありえないほどの状態。

部活に専念し、毎日友達とばかみたいに騒ぐ日々がなんだかんだかなり楽しかった。本の楽しさとは何か違う、ライブ感のある勢いのある楽しさ
高校時代はとくに自分の好きを主張する人はまわりにいなく、
皆と同じであることがなによりの正解だった。

大学生になって、自分とおなじような人生を歩んできたひとが周りに多くなって状況は変化した(基本的に学力で形作られる大学は同じような育ちの人が多いので)。実は、こんな本が好きなんだよねという話で盛り上がれる環境にようやく身を置くことができるようになったのだ。

現実と読書のあいだに懸け橋がかかるようになった

それはもう画期的だった。
そうして自分の好きなものを語ることは決してダサいことではなかったし、むしろ推奨されるようになった。

自分の中で完結されているような読書世界がきちんと今を生きる現実世界でも認められるようになったのだ。しかもちゃんと、こういうところが楽しいとか面白い、好きというやわらかな感情で同意をうけるのが、なにより嬉しいことなのだ。役に立つから、とか、勉強になるから、という実利的な目的ではない受け止め方がきちんと存在できるようになっていることがうれしい。


好きなものを好きといえない時期があったからこそ、
今の私は、そのすごさをきちんとだきしめられるわけだけど
できることなら、読書は高尚なものとして扱われる現状が変化することを期待したい。


何も持たぬわたしですが、全力であなたのサポートを活かした「なにか」をします!いまはわたしが沢山の知識と文化とアイデアと記憶を吸収するために使います!