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ある添削

忘れられない添削がある。

とあるインタビュー記事の添削だ。

甘辛く仕上げており、お酒との相性もぴったり。お父さんの晩酌にもおすすめです。

「お父さん」と書かれた箇所に、「お母さんは?」とコメントがついていた。

これは私が書いた記事ではなく、私が編集者として携わった記事だ。そしてこの添削は、あるライターさんの記事を私がチェックし、編集長にまわした際についたコメント。つまり私の添削漏れである。

添削漏れ、というより私はこの添削に気づかなかった。気づけなかった。

その場は「なるほど確かに。これからは気をつけよう」と修正対応を行なったけれど、何日か経ち、自分がとても大事なことを軽視して働いているのではという気持ちになった。


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私には1歳の息子がいる。

本が好きな子に育ってほしいなぁと思い、子が生まれてからは絵本を買うことが増えた。

ある日、内容は覚えてないけど昔自分が感動した記憶がある絵本を見つけ、買ってみた。絵本には、こんな一文があった。

「どうして豆太だけが、女ゴ(おなご)みたいに、いろばっかりナマッ白くて、こんなにおくびょうなんだろうか」

胸の奥がざわざわした。

当時の私がまったく気にならなかった一文に、嫌な感情が湧いてくる。

女は臆病で男が勇敢なんておかしい。
臆病な男も勇敢な女もいる。
「ナマッ白い」って言い方、なんか嫌な感じ。

ざわざわした感情はどうもおさまらない。
その根っこになにがあるのかはすぐわかる。「女とは」のイメージに、自分が長く呪われてきたからだ。

「女」なのに料理が苦手
「女」なのに落ち着きがない
「女」なのに気が利かない

「女」という言葉はいつも私を否定する。誰に言われなくても、私が私を否定する。

あるとき、そういえばこの「女らしい」ってやつ、いつからどんな影響によって私の中にあったんだっけ?と考える機会があった。

きちんと考えてみると「これだ」という具体的な出来事はなく、思い当たったのは日常のちょっとした一言、ちょっとしたシーンだった。

昔、おばあちゃんに「あんたのお母さんは片付けができないから離婚されたんだよ」と何度も聞かされたこと

はしゃいでいたら、おじいちゃんに「女の子なんだからもう少しおしとやかにしなさい」とたしなめられたこと

お母さんが知らない大人から「女なのに愛嬌がない」と言われているのを見たこと

やさしい男の子が同性から「おまえ、女みたいでキモイ」とからかわれているのを見たこと

昔、なにかのテレビ番組で、下ネタを連呼する女性が「それでも女かよー」と笑われていたこと

集まりにおにぎりを持っていくと「女子力高いね」と褒められたこと

こんな小さな、悪気ないひとつひとつが積み重なって、いつしか自分を責める凶器になっていた。

小さなひとつひとつが集積したとき、その破壊力はとてつもない。そのことに気づいている今だって、やっぱり私は時々、自分の「女性らしくなさ」に目がいき、責め、責められていると感じ(実際は責められていなくとも)、他の女性と比べて落ち込んでしまう。たとえ自分が頑張っていても、その女性とは別のことが得意だったとしても。それくらい、積み重なったものは強靭なのだ。


私が見逃したあの添削は、間違いなく罪深き「小さなひとつ」になりえるものだった。一見よくみる文章なので、多くの人が素通りするだろう。だけど些細で、悪気を感じないからこそ危うい。

あの添削をもらって以来、誰かの呪いになるような言葉を見落としていないか、注意深く確認するようになった。

それでも、きっと見落としてしまうのだ。今も私は、誰かの呪いになる言葉をどこかに届けているかもしれない。この文章にだって、なにかが潜んでいるかもしれない。

だけど文章を書くというのは、きっとそういうことなのだ。そして今の私にできることは、そのことを怖がり続けることしかないのだと思う。「なくそう」なんて傲慢なことは考えず、とにかくいつも「誰かになにかを植え付けているかもしれない」と怯えながら文章を書くこと。それが私にできる努力なのだ。あの添削をできる人間になるための。

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