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美しい女とはどういう存在か。『あちらにいる鬼』を読んで

GW中、見事に梅雨入りしたので朝から晩までずっと本を読んでいた。

読んだのは小説5冊。

知識を得る読書も計画していたけれど、泣いたり笑ったり温かくなったり考え込んだりするうちに、気付けば物語の世界にどっぷりと漬かっていた。(とくに『朝が来る』で嗚咽号泣しすぎて、もはや外出不可能な顔面になったよ) 

どれも素晴らしい本ばかりだったのだけれど、なかでも1冊、心が深くえぐられるような衝撃的な小説に出合ってしまった。

『あちらにいる鬼』

書店で出合い、表紙とタイトルに妙に惹かれて買った本だ。瀬戸内寂聴さんと井上光晴さんの不倫話(実話)をベースに書かれた物語である。そしてそれを書いたのが井上光晴さんの娘であるという衝撃作。

物語は、井上光晴(小説では「白木篤郎」)の妻と、不倫相手(寂聴さん)の、ふたりの目線で進行する。

料理上手で美しく、夫の不倫を知っていながら沈黙し続ける妻と、結婚や子育てをする人生を捨て、自身の愛に忠実に生きる不倫相手。

設定だけ見ると、不倫相手の女については色情狂で非常識な女として表現されてもおかしくないのに、物語の中のふたりの女は、どちらも同じくらい聡明で美しく、魅力的だった。

あちらにいる鬼/著・井上荒野

とくにそれを感じたのは、恋愛中の男しかり、人間を観察するときのまなざし。そこにある気長さと、不道徳な恋愛とは思えないほどの知的さ、圧倒的な表現力だった。

たとえば寂聴さんの心理描写として、冷めきった男とのセックスをこんな風に書いているところ。

真二が目を覚まして、こちらを向いた。長襦袢の胸元に手を差し込みながら「餌の時間か」と呟いた。
腹は立たなかった。ただ、どちらがどちらの餌なのだろう、と思った。お互いに、まだ食べる部分が残っているということか。食べ尽くせば終わりになる。そのために食べるのだと思った。

白木との恋がはじまりかけていたとき、彼氏と暮らしている家に白木が訪れ、3人で酒を飲み交わした際の気持ちの描写もおもしろかった。

白木が土産に持ってきてふたりでつまんでいた押し寿司をひとつ、口に入れた。その顔の上には不快も嫉妬もあらわれてはいなかったけれど、無表情と言う表情があった。

気持ちについてはなにも描写していないのに、その場の空気感や温度が伝わってくる描写がすごい。

会いに来るときに平気で寝た女を連れてくる白木の態度についても、こんな風に観察する。

もしかしたら白木は、べつの情事を介在させることでしか、もはやわたしとの関係を続けられないのかもしれない。

似たような観察眼を妻の側も持っている。たとえばこちらは、先ほどの寂聴さんの言葉にリンクするものがあった。

昔はときどき、悪戯みたいに吸ってみるだけだった煙草が、最近は手放せなくなっている。私のこの習慣を篤郎は飲酒ほどには歓迎していないけれど、非難はしない。私が喫煙したくなる理由を考えたくないのだ、きっと。

この本を読んでいる間、何度も何度も思い出した一冊がある。それはエーリッヒ・フロムの『愛するということ』。

本は120年もの間読み継がれてきた名著であり、「愛することは技術であり、知力と努力が必要だ」ということが書かれている。

そこにあった一文がまさに、『あちらにいる鬼』に出てくる美しい女ふたりの「愛」を示しているように感じたのだった。

人を愛するためには、ある程度ナルシシズムから抜け出ていることが必要であるから、謙虚さと客観性と理性を育てなければならない。
(中略)また、どういうときに自分が客観的でないかについて敏感でなければならない。
愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛せない。

白木との関係を変化させるために出家までした寂聴さんと、それについて辞めさせたいと考えるも、最終的には「羨ましかったのだ」と気付く妻。愛というものは信念がある人が貫くと、そんなところへまで連れて行ってしまうのか。私がしてきた恋愛はなんだったのだろう。

正直、暴露本のようなテイストだったり、ネチネチした不倫話なら速攻読むのやめようと思っていたのに、思いのほか女というものの豊かさを思い知り、それはもう刺激的な読書だった。井上荒野さんの、野暮な説明を一切省いた筆致も衝撃的だった。

こんな作家さんの存在を今の今まで知らなかったのかと思い、もしかしたら、とエッセイのアンソロジー本を手にとってみた。

案の定、井上荒野さんのエッセイが収録されており、しっかり井上さんのエッセイに線を引き、付箋を貼っていたではないか。

語り手ではない、べつの視点からその物語を読んでみる。語られていないこと、省かれていることを創造する。「そもそもこれって本当にいい話なの?」と考える。なぜなら現実の中で爆風に身を任せるのは、一種の思考停止だと思うからだ。みんなと同じ感情を抱ける安心感は、みんなと違うことを忌避する心にやすやすとシフトする。自由な心を型にはめ、想像力を閉じ込めてしまう。
ベスト・エッセイ2021/物語爆弾のしわざ

井上荒野さんの小説を読んだ後にこの文章を見て、いろんなことが腑に落ちた気がした。この人はこうだから、あの文章が書けるのだ。

連休に素晴らしい本と出会えてよかった。生きている間にあと2回は読みたい1冊でした。


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