だから私は性善説を信じてる
突然ですが、ある方とお話したときに過去のショッキングな体験を思い出し、そこから自分らしさについて思うことがたくさんあったのでここに記録しておこうと思います。
思い出したのは高校の倫理の授業で性善説と性悪説のどちらを信じるかと多数決をとったときのこと。
性善説はクラスで私ひとり、性悪説は私以外の全員(※選択科目だったため人数は少なく、1対10くらい)でした。
ここでひとつ補足しておきますが
荀子のいう性悪説とは、人は生まれつき悪なのでそれが嘆かわしいと言っているわけではありません。
悪に傾く習性があるからこそ正しい教育を受けて、正しい思想や礼儀、人間性を持つことが必要であると最後にはまとめてあり、これを礼治主義と呼んでいます。
クラスメイトたちの主張は
「子どもは我慢ができないから大人に怒られる。怒られて育つのだから最悪説だ」ということでした。
一方で私は
「子どもは無垢だから知らないことを大人から学ぶのであって、それは悪ではない。全ての人間が生まれた瞬間から悪に傾くかもしれないと疑ってかかるのは嫌だ」と主張しました。
誰か1人でもいいから心に響いてほしいと思いましたが、私の主張を聞いても意見を変える人は誰もいませんでした。すごく悔しくて悲しかったです。
クラスメイトたちは子どもの頃の自分を思い出して悪だったと思っているのだろうか?
高校生になった今、道端で会った幼い子どもたちを見ても悪だと感じているのだろうか?
もしかすると本人たちはそれほど深刻に考えずに手を挙げたのかもしれません。
でも、子どもが大好きでこれから子どもとかかわる仕事をしたいと思っていた当時の私にとってとても深刻な問題でした。
この過去の出来事を思い出し、私が人の可能性を信じたいと思う気持ちは昔から変わっていないんだと確信しました。
『苦手ではなく得意に焦点を当て、一人ひとりの個性を生かすこと』
これは私が前職である幼稚園教諭だったときの志ですが、職場内では「その考えは間違ってる。考えが甘すぎる」と馬鹿にされ、否定され続けました。
それでも私は自分が間違っているとは思いません。
なぜならSHEに入会して、私の考えを応援してくれる存在に出会えたからです。
そして、人の可能性を信じ続けることは誰にでもできることじゃないということにも気づかされました。
それならば、私だからできる『人の可能性を信じ続ける』力を生かして大切な人たちの役に立ちたい。
私は別に人に好かれるために人助けをしようとか、見返りを求めようなんて思っていません。
ただ、
『あなたを信じている人はここにいるよ』
ということを伝えたいんです。
見返りも求めずただ純粋に自分を信じてくれる人がいる、いつでも受け入れてくれる人がいる、そう思うと少しだけ心がやわらかくなりそうじゃないですか?
もちろん、過度な期待はプレッシャーになることもあるとわかっています。
その塩梅を見極められる人になりたいんです。
心がやわらかく、まあるく、あったかくなる人が増えて、優しい循環を作る。そうしたらきっと今より明るくてあたたかい世界になる。
私はそう信じて、これからも私らしく優しい循環を作るために挑戦を続けていこうと思います。
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