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自分語りpart2

part1で、2000年に父が亡くなったことを書きました。
あともうちょっとで術後5年になるところでしたが、身体中に散った変異した細胞は、恰幅の良かった父を別人のように見せていました。
そもそも最初の手術で骨組織に転移していたらしく、取りきれなかったそうです。
痔だと思っていたらしいけれど、本当のことを知るのが怖かったのだろうなぁと私は確信しています。

父に対しては、恩も感じるし、💩だと思うこともあり、まだ気持ちがちゃんと整理されていないような気がしています。
かれこれ四半世紀も経つのだから、怒りは静まっていますけれど、むしろ観ないふりをして今まで生きてきたようにも感じます。

愛と憎しみは表裏一体で、オセロのように簡単にひっくり返る感情です。
継子の私を育ててくれた恩と、しかしあれは確実に虐待だろうという記憶とが、交錯しています。世代の連鎖を断ち切れなかったことを、私は娘に死ぬまで心の中で詫び続けなければならないと思っています。
娘に手を挙げながら、幼かった私が恐怖と痛みで同時に泣き叫んでいました。その棘は、私が自分で抜かなくてはなりません。
そのためには、あの時に記憶を戻して、出来事を俯瞰して観察する必要があります。

娘が小さい時、父は「子どもは動物と一緒だから、痛い目に合わせて覚えさせる必要がある。理由なんて説明する必要はない」と言っていました。
父もその父親から鉄拳の躾を受けていたようです。
娘に手を挙げてしまった言い訳にもなりませんが、感情の波に溺れそうになった時に思い出すのは、父親に殺されるのではないかと思うほど殴られ続けたことでした。
父も同様に、父の父親に殴られた時のことを思い返していたのかもしれません。きっと辛かったのだろうと今なら思えます。
私が父を本当に赦して、育ててもらった感謝を捧げることができたら、その棘が抜けるのだろうと思います。

そもそも、この歳でなお、親に対してわだかまりを持っていることをなんとかしなければと思っています。
普段は記憶の底に沈んでいますけれど、底に「それ」があることは間違いなくて、時折ぷかりと浮かんできます。厳しい父親でしたとひと言で済ませられるほど、単純な記憶ではありません。

がんの手術を受けて、家で療養していた父は、働いている母のために、食事の用意を毎日していました。娘の幼稚園のお弁当も毎日作ってくれていました。不器用な父の作る、でも味は抜群の茶色いお弁当は、娘の記憶にちゃんと残っています。娘にとっては、家庭的で優しいおじいちゃんだったのだと思います。

月に一度、聖路加病院に抗がん剤治療のために通っていました。
私が車で送迎し、娘の幼稚園へのお迎えは母か、母が仕事の時はママ友に頼んでいました。その時、私は父が抗がん剤治療を受けていることを知らず、母は父ががんであることすら知りませんでした。
ある時、父とちょっとした口喧嘩になりました。
しばらく口をきかなかったのですが、父が「俺はもうすぐ死ぬから、もうケンカはしたくない」とポロリと言いました。
本当に、それから2週間も経たないうちに父は亡くなりました。
ある朝「病院に連れて行ってくれとパパが言っているの」と、母から電話がありました。
布団の中で、ほとんど朦朧としていた父は、玄関まで自力で這って行き、かたわらに立っていた娘に「出かける前にはトイレに行くんだぞ」と言い残し、二度と実家に戻ることはありませんでした。

翌日の深夜に、父は亡くなりました。
そんなにあっさり亡くなるとは思っていなかったので、一度家に帰ってしまったのでした。
主治医は不在で、レジデント医が「今日明日が山です」と言っていたのですが、「山です」の意味が私にはわからなくて、娘も小さいし、母は明日仕事だしという変な正常バイアスによって帰宅したという、なんとも無知丸出しの顛末です。山を越えたら、回復するのだと思っていたのですよ。
ひとり付き添いで残った弟から呼び出しの電話があり、急いで病院に向かい、病室に着いたと同時に医師の心臓マッサージの手が止まりました。
私たちが着くまで、父の身体を暖かくして待っていてくれたようでした。

四半世紀前の記憶を辿りながら書いているので、思い出すことが前後しますが、入院した時の父は、すでに相当痛みがあったようで、モルヒネを投与する承諾を母がしました。そうするともう意識は戻りませんがいいですかと念を押されましたが、母は承諾しました。モルヒネを投与するまでの間、母は必死に「預けたお金はどこにあるのか」と父に問い続け、父は「弁護士に言ってある」と答えていました。

後日、父の友人の弁護士に話を聞いてみても、何もご存じありませんでした。最期まで口を割らなかったのはある意味あっぱれです。

母は画商をしていて、悪い意味ではなく、口が上手でしたので、毎月かなりな額を売り上げていました。そのお金をすべて、父に預けていました。父も会社を経営していて、亡くなる2年ほど前に会社を畳みましたが、それまでに母のお金を会社のあれこれに相当流用していたと思います。
最後まで残ってくれた秘書の方にも、幾ばくかの立替をしてもらっていたようですし、父が亡くなってから何人かの方から、貸したお金を返して欲しいと申し出がありました。

ちょっともうなんなのよーーーとキレ気味に、弁護士の先生に相談して、実家を処分して、家財道具も一切合切処分して、怒涛の日々が過ぎました。
あの時の私は、アドレナリンだけで動いていたように思います。
母も弟も木偶の坊のようで、私ひとりが頑張っていたように思うのは、私の傲慢でしょうか。手伝ってというべきだったのかもしれませんけれど、なぜか私がやるべきなんだと思い込んでいました。
育ててもらった恩はこれで返したからね、と父に言いたかったのかもしれません。

家族葬のような形で荼毘に付したことが、父の兄弟の耳に入り、そこでもまた悶着がありましたが、幸いなことに私は父の兄弟にとっては血の繋がらない姪なので、直接の抗議を受けることはありませんでした。

あの時私があれだけ動けたのは、まだ40代だったこともありますけれど、怒りがモチベーションになっていたからだと思います。
父が亡くなって悲しくはあったけれど、それを上回る怒りが私を動かしていたと思います。

私がなんとなく、男性に対して苦手意識や不信感を持っているのは、父に対する複合的な感情があるからだと思います。
結婚はしたものの、40年近い結婚生活で、半分以上別居しているのも、そんなところに根っこがあるように感じています。
私の欠けている部分は、今世で修復できるでしょうか。
欠けている部分もひっくるめて、人間はその存在自体が尊いのだとは思うのですけれど。

今日も長くなりました。
お付き合いいただいて、ありがとうございます。

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