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始末のつけ方

モノを捨てるのは辛いです。
せっかく買ったのに(いただいたのに)捨てるなんでもったいない。
まだ使えるのに、捨てるなんてとんでもない。
修理すれば使えるのに、おばあちゃんに叱られる。
ゴミを出すことは地球を汚すことになるんじゃないか。
理由はたくさんあるけれど、捨てるのって辛いし、罪悪感も半端ないです。

だけど、前に進むためには捨てなくてはならないものがある。
それは、ものだったり、居場所だったり、地位だったり、職業だったりもする。それによって、過去と決別して新しいステージに行くことができる。

水筒に水を入れるとき、古い水は捨てて、キレイにゆすぎます。
そのまま継ぎ足すことはしませんよね。
気持ちはなかなかそのようにはいかないから、モノを通して、すっきりの疑似体験をしているのかもしれません。
お風呂に入ったり、部屋の掃除をしたり、不要なモノや、前年度までの資料や教科書を処分したらすっきりするのは、体感と心が繋がっているからなのでしょう。

正直な話、水筒に入っていた飲み残しの水でさえ、そのまま捨てるのはもったいないなぁと思っています。
明治の祖母、昭和一桁の母から受けた価値観や観念は、相当強固に私に染み付いています。
彼女たちはケチだったのではなくて、始末の良い女性でした。
むしろ、きっぷの良い、江戸の下町生まれの祖母でしたし、母も商人の娘らしい、お金にあまり頓着しないところがありました。
良い品質のものを大切に使っていました。
あの当時、日本で売っているものは総じて良い品質でした。道具も職人が作り、修理して使うことが当たり前の時代でした。
祖母の口癖は「道具は安い」でした。
食べ物の確保に苦労した戦時中を経験したからこその口癖なのかもしれません。
道具は安い。一度買えば一生使える。
祖母の言葉はそのように続きました。

例えば絹の反物にしても、今の着物はなんとなくペラペラとしています。
着物の重さが違います。だから昔の着物を着ると、しゃんとします。
鍋も包丁も布団も、叩き出したり研ぎ直したり打ち直したりして、長い間使うものでした。

台所が女性の聖域ではなくなり、男の職場というものもなくなり、ゆるゆるとしたボーダーさえ消えてなくなりそうな昨今、古き良き時代の習慣や考え方を、固定観念として一掃してしまうのは、なんだか違うような気がしています。

お手軽なペラペラとしたものを買うのはやめようと思います。
使い捨てという考え方も、もうやめようと思います。
地球は、人間がどんなに理不尽な行動をしても、びくともしない強さを持っているとは思っていますけれど、時々行き過ぎた行動をくしゃみのような現象で知らせてくれているような気がします。
そのお知らせを、無視するのはもうやめようと思います。

断捨離をすると、捨てるというハードルが下がってきます。
だからと言って、ばんばん買ってがんがん捨てるというのは考え違いだとも思っています。
どうしても捨てられないものなら、捨てなくてもいいと思います。
モノだけではなく、家族に伝わってきた見えないものも同様に。

現代の昭和30年代生まれは、私にとっての明治の祖母と同じ立ち位置です。残したい伝統というほどのものはありませんけれど、舌が覚えている祖母や母の味を、再現してみたいと思うし、娘にも食べさせてみたいと思います。

始末をどうつけるかというのは、自分の身の処し方にも現れます。
引き際が美しいかどうか。やっと咲いた桜が風に散る姿を見て、そんなことを考えます。


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