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④武家社会の成立1-1

1.鎌倉幕府の成立

源平の争乱

平清盛が後白河法皇をしりぞけ、1180 (治承4)年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団や都の貴族・大寺院の中には、平氏の専制に対する不満がうずまき始めた。この情勢をみた後白河法皇の皇子以仁王と畿内に基盤をもつ源氏の源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、決起をよびかける王の命令(令旨)を諸国の武士に伝えた。このよびかけに応じて、伊豆に流されていた源頼朝や信濃の木曽谷にいた源義仲をはじめ、各地の武士団が次々と立ち上がり、三井寺や興福寺などの大寺院の僧兵もこれに応じて、ついに内乱が全国的に広がり、5年にわたり争乱が続いた(治承・寿永の乱)
内乱の大きな力となったのは地方の武士団の動きである。彼らは国司や荘園領主に対抗して所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、新たな政治体制を求めていた。平氏は都を福原京❶(現、神戸市)へと移したが、まもなく京にもどり、畿内を中心とする支配を固めて、これらの動きに対決しようとしたので、全国各地で戦いが続いた。

❶福原には古くからの良港大輪田泊があり、 瀬戸内海支配のための平氏の拠点であったが、この遷都には大寺院や貴族たちが反対したため、約半年間でまた京都に帰ることとなった。

しかし、おりからの畿内・西国を中心とする大飢饉(養和の大飢饉)や、清盛の死など悪条件も重なって平氏は敗北し、安徳天皇を奉じて西国に都落ちした末、1185(文治元)年、頼朝の命をうけた 弟の源範頼義経らの軍に攻められ、ついに長門の壇の浦で滅亡した。

鎌倉幕府

反平氏の諸勢力の内、東国の武士団は武家の種梁で源 氏の嫡流である頼朝の下に結集し、もっとも有力な勢 力に成長した。頼朝は挙兵後まもなく源氏ゆかりの地、相模の鎌倉を根拠地として広く主従関係の樹立につとめ、上京を急がずに新しい政権の形成を目指し、関東の荘園・公領を支配し、御家人の所領支配を保障していった。1183 (寿永2)年には、平氏の都落ちのあと、京都の後白河法皇と交渉して、東海・東山両道の東国❷の支配権の承認を得た。

❷幕府の支配権が強力におよぶ東国の範囲はこの後やや狭くなり、遠江・信濃以東の15カ国とされた。

ついで1185 (文治元)年、平氏の滅亡後、頼朝の強大化を恐れた法皇が義経に頼朝追討を命じると、頼朝は軍を京都におくって法皇に迫り、諸国に守護❸を、荘園や公領には地頭を任命する権利、また1段当り5升の兵糧米を徴収する権利、更に諸国の国衙の実権をにぎる在庁官人を支配する権利を獲得した。

❸守護は当初、惣追捕使国地頭などとも呼ばれたが、後に守護に統一された。

こうして東国を中心にした頼朝の支配権は、西国にも及ぶこととなり、武家政権としての鎌倉幕府❹が確立した。

❹幕府とは、元々、出征中の将軍が幕を張って、その中で軍務を決裁した陣営を指す漢語であるが、日本では近衛大将や征夷大将軍の中国風のよび方として用いられ、転じて武士の首長が打ち立てた政権を指す語となった。

鎌倉要図 鎌倉は源頼義以来、源氏と関係の深い地で、三方を小さな丘陵にかこまれ、南は海にのぞむ要害の地であった。

その後、頼朝は、逃亡した義経をかくまったとして奥州藤原氏を滅ぼし❺、1190 (建久元)年には上洛して右近衛大将となり、1192(建久3)年、法皇の死後には、ついに念願の征夷大将軍❻のに任ぜられた。こうして鎌倉幕府が名実ともに成立してから、 滅亡するまでの時代を鎌倉時代とよんでいる。

藤原秀衡の死後、子泰衡が頼朝の要求に屈して義経を殺すと、頼朝は義経をかくまった事を理由に1189 (文治5)年奥州に軍を進めて泰衡を討ち、陸奥・出羽2国を支配下においた。

❻本来は蝦夷征討の臨時の将軍を意味していたが、頼朝が任命されて以後、しだいに武士の統率者の地位を示す官職となっていった。

幕府の支配機構は、簡素で実務的なものであった。鎌倉には中央機関として、御家人を組織し統制する侍所、一般政務や財政を司る政所(初めは公文所)、裁判事務を担当する問注所などがおかれ、京都から招いた下級貴族を主とする側近たちが将軍頼朝を補佐した❼。

❼待所の長官(別当)には東国御家人の和田義盛が任じられたが、公文所(政所)の長官(別当) 大江広元、問注所の長官(執事) 三好康信で、ともに貴族出身であった。

伝源頼朝像(藤原隆信作) 鎌倉時代の肖像画の傑作である。(京都 神護寺蔵)

地方には守護と地頭がおかれた。守護は原則として各国に一人ずつ、主として東国出身の有力御家人が任命されて、大犯三カ条などの職務を任 とし、国内の御家人を指揮して治安の維持と警察権の行使にあたり、戦時には国内の武士を統率した。また、在庁官人を支配し、特に東国では国衙の行政事務を引き継いで、地方行政官としての役割もはたした。

❽大犯三ヵ条は、諸国の御家人に皇居を警護させる京都大番役の催促と、謀反人・殺害人の逮捕で、平和なときの守護の職務でもっとも重要なものであった。また、京都守護は朝廷との関係でも重視され、のちには六波羅探題と改められ、西国の御家人を統轄した。なお九州には鎮西奉行がおかれ、この地域の御家人を支配するとともに太宰府の実権もにぎって現地の職務 を行った。

地頭は御家人の中から任命され、任務は年貢の徴収・納入と土地の管理および治安維持であった。平氏政権のもとでも一部におかれていたが、給与には一定の決まりがなく、土地ごとの慣例に従っていたので、頼朝は、その職務を明確化するとともに、任免権を国司や荘園領主から幕府の手に奪った。

❾地頭はもともとは現地という意味であったが、その現地に強固な支配権を打ち立てた事から、下司などと同じように荘官の職名の一つとなったものである。

こうしてそれまでの下司などの荘官の多くは、新たに頼朝から任命を受けた地頭となり、広く御家人たちの権利が保障された。当初は、地頭の設置範囲は平家没官領を中心とする謀叛人の所領に限られていたが、幕府の勢力の拡大とともに広く全国におよぶようになった。

世界の歴史まっぷ 参照

幕府と朝廷

幕府支配の根本となったのは、将軍と御家人との主従関係である。頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配を保障したり(本領安堵)、新たな所領を与えたりした(新恩給与)①⓪。

①⓪御家人の中でも、西国御家人の多くは地頭に任ぜられず、守護を通じて御家人として登録され、幕府の保護をうけた。

この御恩に対して御家人は、戦時には生命をかけて戦い、平時には京都大番役鎌倉番役①①などを勤めて、従者としての奉公に励んだ。

①①鎌倉番役とは、東国の御家人に幕府を警固させる役である。

こうして平安時代後期以来、各地に開発領主として勢力を拡大してきた武士団、特に東国武士団は御家人として幕府のもとに組織され、地頭に任命されて、強力に所領を支配することを将軍から保障された。東国は 実質上幕府の支配地域であり、行政権や裁判権を幕府が握り、その他の地方でも国司の支配下にある国衙の任務は守護をつうじて幕府に吸収されていった①②。

①②一国内の荘園・公領ごとの田地の面積や荘園領主・地頭の氏名を調査した大田文は、ほんらい国衙の土地台帳として作られたものであった。幕府が国衙の在庁官人に命じて諸国の大田文をつくらせていることは、国衙に対する幕府の支配力を示している。

このように土地の給与をつうじて、主人と従者が御恩と奉公の関係によって結ばれる制度が封建制度である。鎌倉幕府は封建制度にもとづいて成立した最初の政権であり、守護・地頭の設置によって、はじめて日本の封建制度が国家的制度として成立した①③。

①③封建制度には、(イ)土地の給与を通じて主従の間に御恩と奉公の関係が結ばれるという支配階級内部の法秩序を意味する側面と、(口)土地・農具などを持つ 小農民が土地からの移動の自由を奪われ、農奴として領主に現物地代を納めているという経済的な社会制度を意味する側面とがある。ここでは、(イ)の側面を問題としているが、(ロ)の社会制度がいつごろ成立したかについては、諸説あり。

しかし、この時代には、京都の朝廷や貴族・大寺社を中心とする荘園領主の力がまだ強く残っており、政治の面でも経済の面でも、二元的な支配が特徴的であった。朝廷は国司を任命して全国の一般行政を統轄し、 貴族・大寺社は国司や荘園領主として、土地からの収益の多くを握っており、そのもとには幕府に属さぬ武士たちもいた。
将軍である頼朝自身も多くの知行国(関東知行国)や平氏の旧領(平家没官領)をふくむ大量の荘園(関東御領)を所有しており、これが幕府の経 済的基盤となっていた①④。

①④頼朝が朝廷からあたえられた関東知行国(関東御分国)は、もっとも多い時で9カ国あり、頼朝の所有した関東御領は平家没官領500余ヵ所以上という多数にのぼっていた。

また、御家人の領地の安堵や給与も、土地自体の安堵や給与ではなく、荘園制度にもとづく地頭職という一種の荘官職への任命の形式をとっていた。その限りで幕府も荘園・公領の経済体制の上にたっていたと考えられる。
幕府と朝廷の関係なども、新制とよばれる朝廷の法令や宣旨で定められて、朝廷と幕府とは支配者としての共通面を持っ ていた①⑤。

①⑤10世紀以後、朝廷が定めた法令は新制と呼ばれ、荘園整理令も新制の一つである。こうした公家法としての新制は引き続き鎌倉時代にも出され、やがて幕府も新制とよばれる法を出すようになった。

幕府は守護・地頭を通じて全国の治安の維持にあたり、また、年貢を納入しない地頭を罰するなど、一面では、朝廷の支配や荘園・公領 の維持をたすけた。しかし他面、幕府は東国はもちろん、他の地方でも支配の実権を握ろうとしたために、守護・ 地頭と国司・荘園領主との間でしだいに紛争が多くなっていった。やがて、各地で荘官などが地頭へかわっていき、幕府による現地支配力が強まると、対立も深まっていった。



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