マガジンのカバー画像

自分の国がない私のストーリー

9
在日3世の私は常に「自分とは何者か」の問いを抱えて生きてきた。小学生時代の友達の言葉、みんなと同じでありたかった思春期、新しい気づきを得た初の韓国旅行とアメリカ生活、そして多様性… もっと読む
¥200
運営しているクリエイター

記事一覧

固定された記事

自分の国がない私のストーリー:イントロダクション

もうすぐオリンピックが始まるらしい。こうしたスポーツの国際試合になると、否応なしに意識させられることがある。それは、私には自分の国がないということだ。そうした理由から、私は国際試合の団体種目を見るのがあまり好きではない。 私は日本人ではないけれど、住んだことのない韓国には愛着もないどころか国歌すら知らない。一方日本のことはよく知っているけれど、子供の頃は日本の国歌や国旗について家で無邪気に触れることがNGだったため、今でも国際試合などで目または耳にする日の丸君が代に対して落

名前の話

私は通名を持っていない。しかし私が子供だった頃は、在日の人が通名で社会生活を送ることはとても一般的だった。それは心無い差別を受けたり無用なトラブルを避けるための自衛策でもあったのだろう。だから高校時代、在日の学生のための奨学金をもらっていたとき、その奨学金を拠出していた団体の大人から「本名で日本の学校に行っているのか」と驚かれたことがある。

本当に国がなかった

私が晴れて日本の住民となったのは2012年である。そのときに初めて住民票ができたのだ。それまでは外国人登録というシステムで管理されていたため、制度上の住民ではなかった。

「みんなと同じ」が至上命題だった頃

思春期の私はとにかくほかの日本人の子と同じでありたいと思っていた。だからたとえば家で出される韓国料理のおかずはあまり嬉しくなかった。チゲやチヂミなどいわゆる韓国料理をよく食べるようになったのは、ほかの日本人が食べるようになってからである。

大学生活とワールドカップ

2000年に神戸大学国際文化学部に進学した私の心は期待に満ちていた。ここに来る人たちはみんな何かしら「国際的なもの」に興味があるに違いない。であれば私もその一部として受け入れてもらえるだろう。そんな気持ちに胸を膨らませていた。

生まれた国の国籍を持たないこと

大学2年生のとき、私は初めて韓国に行った。もともと韓国的なものを遠ざけていた私は文化や食事にさほど興味はなかったけれど、ただ初めての海外旅行ということで能天気にワクワクしていた。

就職して直面した新たなモヤモヤ

2005年、私は日本企業に就職した。これは家族にとっては多少なりとも感慨深いことだったと思う。

自己受容が変えた人との付き合い方

ここまで個人的な体験や気持ちを赤裸々に公表しているわけだが、実生活でかかわった友達や恋人にこれほど詳細に語ったことは一度もない。親友と呼べる人たちにさえ言っていないし、結婚した相手にも言わなかった。

違いを尊重する生き方へ

私がずっと大事にしているテーマは多様性の尊重だ。卒論はアメリカの多文化主義教育について書いたし、今の仕事で扱うコンテンツでも多様性視点をとても重視している。けれど振り返ってみれば、自分の生き方は自分の違いを尊重できていなかったと思う。