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ストーリーを紡ぐ意義

人間の特徴の1つは複雑な思考や感情を持てること、そして何よりもそれを他人に伝える能力だ。しかし日常生活のコミュニケーションでは考えるまま話したり、あるいはチャット形式のテキストで伝えることが多い。

だからこそ、思考や感情の背景情報とともにストーリーという塊で提示されると、知っている話でもまったく異なるインパクトを持つ。それについてある人は、表情やしぐさ、その場の雰囲気などの背景に邪魔されず否応なしにストーリーに没頭させられるからと言っていたが、それだけでなく曖昧だった感情や思考に形が与えられたところに、文脈が加わることで、よりそれら感情や思考が意味するものが際立つのだろう。

8月から「もがく女子」というシリーズを書き始めた。きっかけは、友人がくれた「Yunaは自分で言語化できるけど、そうじゃない人もたくさんいる。その人たちの体験を代弁するかたちで物語を書いてみるといいんじゃないか」という言葉だ。そうして書き始めて数ヵ月経つ今、ストーリーが人に与えるインパクトの大きさを実感している。

この2か月、取材した女子たちから立て続けに「公開しないでほしい」という声をもらった。なかでも11月の女子は当初とても乗り気で、「自分の体験を伝えたい。できれば名前も出して書いてほしい」と言っていたぐらいだ。それが実際に原稿を書いて読んでもらった途端、「ここまで赤裸々に開示できない」という。仮名で書くこともできるため一度相談させてほしいとLINEで伝えたが、残念ながら音信不通になってしまった。

また8月の女子からは、特に配偶者がインパクトを受けたという声が届いた。彼女からすれば記事で語った内容はすでに配偶者にも伝えていたことだが、それをストーリーという塊で、文字で目にしたことで別の印象を受けたようだという。

以前、作家の山内マリコ氏が『エトセトラ』という雑誌で田嶋陽子氏の書いた『愛という名の支配』について、次のように評していた。

『愛という名の支配』は小説ではないけれど、上から「フェミニズムとはこういうものだ」と斬るんじゃなくて、田嶋さんの人生がまるごと「物語」として提示されているからこそ、心に浸透するんだと思います。

この言葉はまさに私がやりたいことを端的に表している。私が自らについてあれこれ書いたり、「もがく女子」のストーリーを書き始めたのも、それぞれリアルにもがく姿を物語と提示することで、同じく悩む女子たちの共感を呼び起こし、勇気づけたかったからだ。

しかし実際に自分の体験を物語の形で見ると、「ここまでさらけ出して大丈夫だろうか」と躊躇する気持ちが生まれる。だからこそ、それを乗り越えてまで共有されるストーリーには力があり、人の心を打つのだと考えている。

私自身も最近、ストーリーの力を目の当たりにした本がある。チェ・ウニョン作、古川綾子訳の『わたしに無害なひと』である。自らの不安定さや弱さ、ずるさ、情けなさと向き合う登場人物たちの思考や感情、ちょっとしたひとときに対して残酷なほど鮮やかに形が与えられ、見事に言語化されていた。何度も胸を衝き動かされるシーンがあり、そのいくつかは痛みを伴いさえした。自分自身の弱さ、ずるさ、情けなさをピタリと言い当てられたような気がしたのだ。

上記の本はフィクションだし、「もがく女子」とは種類が異なる。けれど、物語の文脈のなかで、人間の体験に言葉を与えて紡ぐという意味では同じだ。そして私はやはり、それが好きなんだと思う。

世間では少し前から、音声メディアに注目が集まっている。それに私がいまいちそそられないのは、文字で情報を処理することに慣れているからだろう。もっと言うと、文字で綴られたストーリーから私自身がインパクトを受け、感銘を受けるからこそ、文字を追いたいし、生みたいと思うのだろう。

そして私がフォーカスしたいのは、いつだって人がもがく姿だ。そしてその姿は美しく、尊く、生命力に溢れている。たとえまだ成功していなくても、人生がこれでよいのかわからなくても、結果ではなくその過程にこそ、人生の価値があるからだ。

Photo by Nong Vang on Unsplash

過去のもがく女子一覧はこちらから:


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