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「生きるための食事」を、ずっと求めてた

「出かけた先で食べ物を買って、家で一緒に食べられるのっていいよね」結婚生活が始まった頃、彼がそう言った。

かわいい感情と思いながらも、私の心は少し違っていた。昔から、そこまで食に興味がなく、食べることは義務だと思って生きてきたから、彼が感じている嬉しさの熱量がイマイチ分からなかったのだ。

家という箱の中で一緒に時を刻むようになると、彼は1日1食だけ食べていた私に「朝ご飯のおにぎり買おうよ」と声をかけたり、好物のフレンチトーストを作ってくれたりするようになった。

優しい誘惑によって、高校生の頃から変わらなかった体重は3キロ増加。まん丸になっていく顔が、不思議と嫌ではなかった。

彼は私が料理を作る日には毎回、食べる前に「ありがとう」の笑顔をくれた。「これまで食べたカレーうどんの中で1番おいしかった」とか「うますぎ注意だ!」とか大げさすぎる褒め言葉もくれた。

ひねくれ者の私は「ただ市販のフライを揚げただけだよ」と苦笑い。それでも「揚げ方が上手だよね、絶妙!」と、それこそ絶妙な褒め方で私の心を優しく撫でた。野菜を切っただけの日も、そうだ。「包丁で切るのが大変じゃん。ありがとうね」と温かい感謝をくれたのだ。

そうした日常が”当たり前”と呼べるほど続いていくと、苦手だった料理の時間に笑えるようになった。食の時間が少し、楽しい。生まれて初めての感情だった。

食。その言葉をイメージすると、頭に浮かぶのは精一杯の反抗として、食卓で向かい合う父に足先を向けず、いつでも逃げられる構えをしていた幼少期。いつも父の怒鳴り声にビクビクしていた。イヤホンをつけながら食卓につき、飛び交う怒号から心を守った。

早く食事を終えて逃げないと。そう怯え、つま先を外に向けたまま食べるご飯は苦い。恐怖心と気遣いだらけの時間。家は箱。家族はただの集団。父の怒号が、あの頃はおかずだった。

そんな食事は、もうここにはない。家は帰りたくなる場所。家族は嗤い合える相手。今日あった出来事に泣き笑いする時間が、おかず。やっと、生きるための食事ができるようになった気がする。

食べることは生きること。ご飯の時間は食を通して、笑顔を交わす時。30代になって、ようやく知れたその発見が嬉しかった。食べることは義務ではなく、楽しみや幸せのひとつ、なのかもしれない。いまはまだ、「かもしれない」と断言できない。そんな私でもいい。

「一緒に何か食べられるのっていいよね」
彼が言ってくれた言葉を数年遅れで心から返せる自分は、案外好きかもしれない。

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