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透明の壁を作って「心」を奪われないように目を光らせていた、あの頃

24回目のカウンセリング。とても心がモヤモヤしてた。自分がその時その時で何を感じていて、どうしたいのか、最近少し分かってきた。少し言えるようにもなってきた。心臓はまだバクバクするけれど。

でも、意志や感情を言葉にすると悩むことも多い。「嫌なこと」を伝えるのは自分が抱えているモヤモヤを相手に押し付けて、「今度はあなたがネガティブを背負ってね」と言ってるみたいに思えて。

そうじゃないよ、と言ってくれる相手でも、モヤモヤの押し付け合いしか生まれない気がして、言葉にするのを躊躇うことも何度かある。

1ヶ月ぶりのカウンセリングは、結構しんどかった。数日間は何を話したか、結構覚えていたんだけれど、今振り返ってみると、あまり思い出せない。カウンセリング時に浮かんだ映像だけが思い出せる。

リビングで母の横に座りながら、延々と続く父親や祖父母の愚痴を聞いている私。それを見つめる祖母の姿も視界に入る。いつものように表面上の「人がよさそうな顔」を浮かべずに、素っぽく無表情の死んだ目で小さな私を見つめる祖母の視線が嫌だ。

リビングの窓からは、外にいる父の背中が見える。この人との間には、いつもガラスの壁がある。こっちを見てくれない。見られたところで、私はどんな顔をすればいいのか困る。

頭の中に浮かぶ光景はカウンセリングが進むにつれて変わっていき、着きたくもない食卓が見える。誰かの愚痴を吐き、大声で怒鳴りながら食事をする父が私の目の前にいる。本当は席につきたくないけれど、怒られたり機嫌を損ねて家庭の空気が悪くなることのほうが嫌だから、小さな反抗として足だけを母のほうに向け、食事を口に運ぶ。

味がよく分からない。食べ物の味よりも、気にしないといけないことがたくさんある。いつ父の怒りスイッチが入るか。いつ、誰が地雷となる言葉を言うのか。私の一言で父の機嫌がよくなることは多いから、ちゃんと会話を聞いていないといけない。フォローしないといけない。したくもないのに。

そういうあの日々の心をカウンセラーに心を話していると、自分でも知らなかった気持ちを知る。父を前にしたあの頃の私は、心が奪われると言った。自分の口から出た言葉に、大人の私が驚いた。こんなことを思っていたんだな。ああ、たしかに思っていたかもしれない。思っていたな。言葉にできないレベルで。

カウンセリングを受けると、あの頃、「モヤモヤ」や「ムカつく」と表現していた感情の正体が分かる。そんなたやすい言葉では片付けられない気持ちがたくさんあったことに気づく。

そういう気づきを得ると、カウンセリング後にふと、新しい考えが脳に宿ることがある。今回もそうで、父に管理が嫌で、家族を監視することで家庭の平和を保とうと頑張っていた自分に気づいたら、「もう私は誰かに管理されない世界にいるし、誰かを監視や管理しなくても平穏に暮らしていけるのでは?」と思った。

今とあの頃は違うんだから、当たり前。傍から見れば、きっと私は当たり前のことを言ってるだけ。でも、その当たり前を心で実感するには時間がかかる。気持ちが納得して、心の芯に落とし込めるまでは、もっと時間がかかる。

ただ、管理や監視の視点が自分にあることに気づいたら、いまの私もよく、無意識下で自分がいかに人や自分を管理・監視しようと神経を張り巡らせているのかが分かった。そんな生活、疲れて当然だった。

大丈夫。もう誰にも管理されないくらい大人になったし、管理から逃げ出す手段も知っている。今いる家は、管理されない場所。誰かの足音や言葉、行動を監視しなくても平穏が続く場所。自分のことも監視しなくても、管理できなくてもいいじゃない。管理も監視もできないほど自由なのが、「人間」なんだから。

泣けてしまって、ここまでしか文が書けなかった。



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