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noteにしがみつく心境をおもう

このところ、noteに書こうかな、と思っていても、エディタを前にすると書けなくなることが頻発している。
以前、書いたことがあるが、僕の場合は書くネタをメモしてはいるが、細かく内容を決めたりしない。
ざっと数行、少ないと一行くらいのメモからnoteを書き出す。
だが、ここ最近はどうもメモからでは書き出せない。数行書いても、途中でやめてしまうものも多い。今までなら、ちゃんと練った方がいい記事、という区分に入れたのだが、我ながらそこまででもないだろう、という内容も含まれるようになってきて、いささか焦り出した。
これは、書く力が落ちてきているのではないか、と。

とはいえ、焦るというのも妙な話だ。
何せ、僕は書くことを職業にしている訳ではない。仕事向けの文章が書けないのならともかく、趣味の分野が止まったところで困りはしないはずだ。
けれど、なんだか落ち着かないように感じてしまうのは、僕自身のSNSとの関わり方がいびつなせいかもしれない。
何も動いていないと、自分がその場所からいなくなってしまったような錯覚に陥るのだ。

僕という人間は、集合体の中央値になりやすい。平均値と言わずとも、真ん中付近をさまよい、とりたてて特徴を持たない位置を取る。
大半の人間がそうだろう、非凡な人間は少ない。
そう思ってきたが、最近はそうでもないことに気づいた。
平凡な人間でも、因子で目立つことはあり得る。
たとえば参入時期、グループ内の平均値から性別、年齢などの組み合わせ要因で少数派に属し目立つケースはちらほらあったりするのだが、僕は常にありふれたところをさまよって埋没する。
とにかく個性が死んでいるのだ、僕という人間は。

もちろん、そんな人間はありふれている。
個性が死んでいる人間がSNSの大半で、その中で運良く目立つ場所を取れないか、と椅子取り合戦を繰り広げるほどバイタリティもなければ、目立つことを望んでいる訳でもない。
気づけばそうだ、というだけ。

だからこそ、地味に記事を重ねていたいのだろう。
一つの記事で人を引けるほど、強いものなどない。かといって目を見張るほどの量で勝負もできない。
僕にできるのは、細々とそこにあり続けることだけだから、書き続けていたいのだと思う。

数年後、思い出した人がいて、気まぐれに僕を探した時、まだ生きているんだな、と思ってもらえたら、それだけで本望なのだ。