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noteを書かせる魔法の仕組みを考える

月末処理あれこれを終え、開放感に満ちあふれながら、寝る前に紅茶を飲みながらふとカレンダーを見て気づいた。

noteの前回更新から一ヶ月過ぎた、と。

noteは連続更新をするとポップアップが出て、連続更新日数をカウントし、称賛してくれる機能がついている。
これは元々、日数にのみ適応されていたのだが、途中から毎週、毎月のカウントも行われるようになっており、ささやかながら更新意欲を上げるような仕組みになっているのだ。

また、上記カウントはnoteの「バッチ機能」にも反映されるようになっており、収集癖がある人にはたまらない仕様になっている。
だが日数カウントは最大が連続1000日数以上必要なので、けっこう厳しい。
僕などは無理だな、と最初から諦め気味なのだが、これに挑戦する猛者はちょいちょいで見かけるので、やはり魅力は強いのだろう。
連続更新三年以上必要、と考えると、これがかなりハードル高いことはわかってもらえると思う。

僕も、生来の飽きっぽさと恐るべしの忘れ癖がなければ、ちょっとやってみたくなる心境は分かる。そしてそれは、書きたい本能とか書かねばならぬとか、そんなまともな理由ではない。

ポップアップの日数カウントが、心地いいのだ。

誤解を恐れずいうなら、noteのポップアップは、noteを書くだけで達成感を与えてくれる仕組みだ。内容の良し悪しにかかわらず、ただ投稿したという事実のみでほめてくれる。
これは書くことを習慣付ける自主トレーニングの補助器具としては優秀だと思う。達成感というのは、物事を続ける上では重要なモチベーションを与えてくれるからだ。

だが、この仕組みには罠がある。
この連続更新の継続だけが目的になってしまい、記事の投稿がポップアップを見るための手段と化してしまうという落とし穴だ。

どんな内容でもいいから投稿しよう、だって毎日更新が途切れちゃうからね! となった時、その「どんな」にその人の力量が試される。
毎日更新にこだわるあまり、表に出すレベルではない記事を投げてしまう、という愚行を、ごくまれにならマシだ、それを毎日続けるようになると、もはや文章のトレーニングの意図は果たさない。
それはただの、データのゴミ量産行為である。

……まぁ、僕も過去、盛大にやったことあるんですけどね。

あんな記事を量産するくらいなら、素直につぶやきでつなげた方がいいと今なら思うけれど、当時の僕はもっと視野が狭かったので、内容にこだわりもしないのに、記事投稿という形式にはこだわっての体たらく。
今となっては下書きに戻しているものの、未だに当時の記事を思い出したくない黒歴史だ。

いやいやどのレベル、というと、本当にちょっとヤバかった。
普段から大した内容を書いてない僕が、あえてヤバいというのだからお察しの出来だ。
あれはすでに、テキストの体を成していなかった。

正気を取り戻した僕は、今となっては毎日更新ができる筆力にも状況にもないことを泣く泣く認め、自分のペースで出すことにしている。

けれどたまに、本当にたまーに魔が差して、連続更新を目指してみたくなることがある。

自己満足で文章を書く人間にとっては、あの妙な達成感はあらがいがたいのだ。