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自分を大切にするということー後編ー

いま私が思う「自分を大切にするということ」を書き連ねていく後編です。

前編をお読みでなくても読み進められる内容となっておりますので、もしよろしければ最後までお付き合いくださいね。


変わらない安心感をどこに求めるか

自分に対して価値があるなんて思えなかったり、自分のことが信用できないと感じるとき、生きるということは、まるで真っ暗闇のぬかるみ道を何も持たずにさまようような感覚でしょうか。

自分は自分のままでいい、自分のままがいいと思えることは、そんな状況下における、地図や灯りのような安心感とも言えそうだなとよく思います。

自分の中に安心感が無いときや、あるいは作れないとき、安心感を得るためには自分の外側に探し求めるしかなくなってしまうわけですが、そんなとき、ようやく得られた他者からの承認や評価は、まるで道しるべや街灯のようにも思えるかもしれません。心から安堵し、救われた気持ちになった経験は、私にもたくさんあります。(ありがたいことです)

ですが、安心感を外側に求め続けたり、他者からの評価を絶対的な価値であると定義するのはどうなのだろうとも思うのです。安心感のシェアを100%外部に依存するという意味です。

なんだか危ういな、健やかではないなと私は感じてしまうのですが、みなさんはいかがですか。

どうしてそう感じるのだろうとその理由を自分なりに探ってみると、いくつかの疑問が湧いてきました。

人生という自分だけの道のりに、果たしていつも既存の道しるべや街灯はあるのでしょうか。それがいつも完全に信頼できるという保証があるといえるでしょうか。いつも他者が作った道しるべや街灯を期待して、自分では地図も灯りも持たなくていいのでしょうか。善意で作られた道しるべや街灯が、好ましくない結果を生んだときは納得できるでしょうか。

これらの答えはいずれもYESとは言い難いですよね。自分の外側に安心感を求めるということは、他者から安心感を与えてもらうのをひたすらに待つことであって、それはつまり、安心感を自分ではコントロールのできない他者に委ねるということと同義ではないかなと。

もし、安心の反対を不安とするのであれば、安心を自分のコントロール外に置くということは、不安を自分の中に置くことであるとも言い換えられるかもしれません。

だとすれば、安心感のシェアは100%外部に委ねるのではなく、少しずつ自分の中にも育んでいくのがよさそうです。もちろん、安心感の全てを自分ひとりきりで賄う必要があるわけではありません。

でも、よし安心感を育もう!と思い立ったからといって、簡単にできることではないですよね。

なぜなら、自分に対して価値があると思えないことにも、自分を信じられないことにも、そう思わざるを得ない(あるいは、そう思わされてきた)理由や事情が必ずあるはずからです。

手っ取り早く「実践!今すぐ自己肯定感が上がる方法」みたいなものに飛びつきたくなる気持ちも分からなくはないですが、付け焼き刃で太刀打ちできるほど、人生は一筋縄ではいかない気がしているので、レンガの家を積み上げるように時間をかけて地道にやっていくのが正攻法のように思います。

生まれたときから死ぬときまでの長い旅路を、ずっと一緒に過ごす唯一の存在、それは自分以外にあり得ません。

どうせずっと一緒に過ごす存在ならば、できるだけ良好な関係性の方がいいでしょうし、信頼できる存在であれば心強いものでしょう。地図の精度を上げ、灯りを確かなものにしてくれるはずですから。

とはいえ、なかなか難しいと感じたり、目を背けたくなるのは無理もありません。「これしかない」と思っていたはずの生き方や価値観に、新たな選択肢を増やすことでもあるのですから。私はといえば、まだまだ練習中の身です。

ただ思うのは、他者にしてあげたいことを自分にもしてあげる、他者にしないことは自分にもしない。媚びを売るでも甘やかすでもなく、他の人と対等に自分を扱うようにする。無理はしない、でも、できることはやってみる。それが、自分を大切にすることのヒントのような気がしています。

自分で自分が生活できる分の収入を得られるようになること、イコール「経済的な自立」だとするのなら、自分で自分を大切にしてあげられるようになること、イコール「精神的な自立」なのかもしれないなと、ぼんやり考えたりします。

決して、自立することが人生の目的だとは思いませんが、自分を大切にするということは、周囲の人たちを大切にすることだったり、人間関係を円滑にする上で重要な要素だとは思うので、下手なりにも自分の中に安心感の幹を育んでいけたらいいかなと思う今日この頃です。

矛盾しているように聞こえるかもしれませんが「自分を大切にできない自分はダメだ」とは考えていません。そもそも、自分自身を良い悪いでジャッジする必要ってないんじゃないのかなと思っているからです。

「今は自分を大切にできない」、ただそのことに気付いて、そのままを受け入れてみる。評価という枠組みではじくのではなく、大切にできない状態も、ダメだと思う感情も、自分自身の一部としてその存在を認めてあげていいのではないでしょうか。

あなたはあなたのままで

今、この文章を読んでくださっている方の多くが、「自分を大切にする」ことの難しさに直面したことがある方ではないかと思いながら文章を綴っています。

あなたはあなたのままでいい、そんなありふれた言葉は飽きるほど聞いてきたけれど、とてもそんなことは信じられないから生きづらい。

これほどまでに自分が嫌いなのだから、大切になんてしたくないし、到底できるわけがない。

思い描いていた人生はこんなはずじゃなかったのに、まるでダメな自分を今さら許せるなんて思えない。

自分に対する想いは人それぞれかもしれませんが、共通している確かなことがあると思うのです。

それは、こんなにも「自分自身に関心を向けている」ということです。

マザーテレサはかつて「愛の反対は憎悪ではない、無関心である」という言葉を遺しましたが、自分自身に関心を向ける力があるということは、自分自身を愛する力も備わっていると私はそう信じています。

ですから、自分は自分を大切にできないと責める必要は無くて、むしろそこにはちゃんと希望が存在しているということを、どうか知っていてほしいのです。

ずっと自分を否定しながら生きてこざるを得なかった、自分には価値が無いと刷り込まれ続けてきた中で、自分を大切にできるはずもなかった過去を、ここまで生き抜いてきた自分のこと、認めてあげていいのですからね。

最後に

厳しい冬を越え、春はやわらかな光の下で花々がそれぞれに膨らんだ蕾をほころばせる季節でもあります。

花が美しいのは、自らの美しさが独自のものであると理解しているからなのかな、なんて思ったりします。

モクレンはサクラになりたいなんて思ったりしていないでしょうし、チューリップはラナンキュラスになりたいわけでもないでしょう。

それぞれの美しさを比較することに意味は無くて、それぞれがただ美しく、花たちは自分以外のものにはなれないことを知り、ただただ自分の生を全うしているように感じてならないのです。

気が付いた頃には、季節が自分を追い越していってしまっている、そんな日々ですが、今年は四季の移ろいと共に「今ここに生きている」感覚を自分に味わわせてあげられたらいいかなと思っています。

さて、書き始めると想像以上のボリュームになってしまい、2回に分けてお送りいたしましたが、最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。読みにくい点も多々あったかと思いますが、ここまでお付き合いくださったことに心から感謝しております。

自分を大切にできる日も、大切にできない日も、あなたがあなたを生きられますように。私が私を生きられますように。

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