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新潟出身者と東京の銭湯 神田稲荷湯初代の話を三代目(仮)が聴いてみた

東京の銭湯経営者は北陸三県出身の人が多い、という話を皆さんはご存知でしょうか。

神田稲荷湯三代目(仮)まもるの祖父母も、御多分に洩れず新潟の出身です。では、その新潟出身者たちはどのような人生を歩んできたのでしょうか。

今回はまもるが、1930年に新潟の燕市・長所(ちょうしょ)で生まれたまもるの祖母と、祖母の娘であるまもるの叔母に、話を聴いてみました。

*本文は3人の会話を書き起こしたものです。
*文中に出てくる「〜たった」「〜したった」は「〜した」という意味です。
*本文に挿入されている図はイメージ図です。


まもる:おばあちゃんって何人兄弟だったの?
祖母:何人兄弟だろ、死んだのは知らないからね。一番上と二番目の兄が兵隊に行って、男は三人だね。で、弟が下の方で生まれたでしょ。女は、私より二つ上の姉と、川崎で銭湯やってた妹かな。私のうちの、前と隣のうちは親戚で、隣のうちの息子たちはまいーにちうちに来て、おじいさん(祖母の父)が焼いたかた餅食べてた。
まもる:お父さん(まもるの父、祖母の子)から、おばあちゃんの家には馬がいたっていうのも聞いたんだけど。
祖母:馬もいたし、牛もいたし、鶏もいたし。
まもる:鶏もいたの?
祖母:うーん、賑やかだったよぉ。
まもる:賑やかそう笑
馬とか牛がいたのは食べるため?
祖母:田んぼやってたの。小さい田んぼに、馬が入れないところを牛が入ってたの。うちのおじいさんはなんでもそういうの好きだったからね。
まもる:馬で田んぼやってたのか。
祖母:でも戦争中は、軍に馬はとられたったなぁ。食べるものは自分たちで作るんだから、少なくはならない。けど、あるとみんな持ってかれちゃうから、兄なんかが外の糠なんかで固めたところに隠してね。すごかったよぉ、戦争当時は。
叔母:おばあちゃん、爆弾落ちてくるところとか見たんでしょ。
祖母:あぁあ、B29。29だっけ?ポロポロポロポロ、ポロポロポロポロって焼夷弾が落ちてくの。
まもる:おばあちゃんがいたところには落ちなかったの?
祖母:うん、落ちなかったけどね。まちの方に落ちてたったのを、木下でか、眺めて見てた。
まもる:家には防空壕みたいなのは?
祖母:そんなのは作らなかった。野菜だけしまうところは地下に作ってたけどね笑
まもる:そうだったんだぁ。野菜とかは地下にいれても、人間が地下にいくことはなかったの?
祖母:人間は、地下はないよ。食べ物あればみんな持ってかれちゃうから。


まもる:おばあちゃんの家の近所で、東京に行ってた人はいた?
祖母:うちの前に住んでた私の母の弟二人と妹は、東京の方で別々に風呂屋してたよ。
まもる:いつぐらいにその人たちは東京に行ったか覚えてる?
祖母:私が小学校の頃だろうねぇ。
まもる:そっか。その人たちが東京に行く時、おばあちゃんはどう思った?
祖母:そん時は、まだ私は子どもだから、そんなにわからない。私が東京へ出てくる時だっても、どんなあれなんだか訳わからないけどさ。
まもる:そうだったのか笑
おばあちゃんって何歳くらいの時に東京に来たの?
祖母:そうだねぇ、19か20歳だったかなぁ?近所の人が「東京行く東京行く」って言ってぼちぼちと東京へ行ってるから「じゃあ私も行こうかしら」って。
まもる:おばあちゃんの兄弟は東京に来てた?
祖母:三番目のお兄さんが、ちょっとだけ芝のおじさんがやってる風呂屋に行って働いてたったなぁ。で、二番目の兄は獣医。姉は農家に嫁いでたけど、私には畑の仕事は向かないって思ったの。
まもる:そうなんだ。おばあちゃんは東京に出てきたあと、なんでお風呂屋さんをやったの?
祖母:昔はね、どんな商売でも、知り合いがいたからここ行こうかって、知り合い頼って出て来たんだよね。だから風呂屋から風呂屋、風呂屋から風呂屋って出てきて、私の生まれたあたりが、風呂屋で一番出てきたのが多かったらしいんだね。私の妹も、私の2年くらい後に川崎に来て銭湯やってたったよ。


まもる:芝で働いてた時、おばあちゃんの他に何人くらいで働いてたの?
祖母:女ばっかり4人くらいで働いてた。新潟にいたった人たちと一緒に行った。それと若い衆がいたったなぁ、風呂屋だったから。
まもる:若い衆って、男の人ってこと?
祖母:うん、釜燃ししてる人。今はボイラーマンって言うけどね。
まもる:おばあちゃんはさ、釜を燃すための木とか取りに行ったりしてた?
祖母:その時はしてなかった。私は、店に来た子どもの面倒見てたの。あの頃は子どもはいっぱいいたったんだからね。
まもる:そうだよねー。
おばあちゃんは芝にいた時、どこに住んでたの? 
祖母:あのうちはね、お店の隣に6畳2部屋の空いてるうちがあったの。4人で2部屋を使って寝泊まりしてたから、広々としてたね笑
まもる:広々とね笑
おばあちゃん達は芝のおじさん家族の、家事の手伝いとかもしてた?
祖母:お手伝いしたよ。みんな、同じ建物だから。ご飯は、一緒には食べないけど、おんなじ釜の飯だった。
まもる:お店はいつ営業してたの?
祖母:そうだね、やっぱり14時ごろ始まって(深夜)12時ごろまでやってたったんだろうね。休みは月に2日くらいだったかなぁ。
まもる:1ヶ月に2日だけ?
祖母:うん
まもる:そっかぁ。お休みの日とかは何してたの?
祖母:近所に映画館も近くにあったけど、あんまり見に行かなかったし、何をふらふらしたったんだろうねぇ。
まもる:芝にはどれくらいいたの?
祖母:そうだねぇ、何年いたんだろう。5年くらいいただろうねぇ。それで結婚して、おじいさん(祖母の夫、まもるの祖父。以下同じ)が池袋の方に風呂屋やってたったから、池袋に行ったの。
まもる:池袋では何年くらい生活してたの?
祖母:そうだねぇ、3年くらいいたったかな?
まもる:おじいちゃんとおばあちゃんと、あと他に働いている人はどれくらいいた?
祖母:やっぱり、5人か6人かな。こっちも月に2回くらいの休みだったよ。営業時間は、始まる時間は同じだけど、終わりはここに来た時よりはちょっと早かったかな。


まもる:神田に移ろうって言ったのはおじいちゃん?
祖母:そうだよ。
まもる:その時おばあちゃんはどう思った?
祖母:そんなことは知らない。私は関係ない。
まもる:そっか、こっちに来て、開店と同じくらいに(まもるの)お父さんが生まれたんだよね。
祖母:あぁそうかもしらないな。
まもる:今だったら産前産後の休暇とかあるけど、その時おばあちゃんは休みをとってた?
祖母:もう店開けた頃なんて覚えてない。毎日店行って、でてたったね。遊びなんかなかったから。
まもる:遊びもなかったのか。うちで働いてるのは、おばあちゃんとおじいちゃんと他に誰かいた?
祖母:田舎から女の子が何人か来たったよ。おじいさんは店の掃除が終わったら、スタフラスタフラどこへ飛んで歩いてたのか訳分からん。
まもる:あんまり家にいなかった?
叔母:色々習い事習ってたのね。民謡習ったりとか。
祖母:だから、うちにいることはあんまりなかったね笑
まもる:おじいちゃんはいつ家にいたの?
叔母:どっかに泊まってるっていうのはなかったの。おじいさんはね。
祖母:そうね
叔母:私たちが学校行く時はもう寝てたから。
まもる:学校行く時は寝てたんですか笑
叔母:何時に起きてんのか知らないけど、あの時は9時とか10時ごろまで寝てたんじゃないの?
まもる:じゃあ、おじいちゃん以外にも掃除をやってた人がいたんですか?
叔母:「おじさん」とかいうなんだか訳のわからないのがいて、その人が毎日桶洗ったりしてたの。
まもる:おじさん?????
叔母:私が小学校4年生くらいの時に、釜場の小さい部屋に、ある日突然現れたのよ。それでその後もうちに住んでたの。おじいさんが連れてきたんだっけ?
祖母:うちはいろんな人が来て遊んでたのよ。冬は寒いから。釜場はあったかいじゃない。
まもる:たしかにね笑
祖母:おじいさんは出て遊びばっかね。サーっと出てけばね、風呂の掃除と薪取るだけはちゃんとやってね。
まもる:あ、薪取りもおじいさんがやってたのか。薪はどこから持ってきてたの?
祖母:薪は、家を建て替えたりなんかするから、そこからもらってたね。
叔母:鎌倉橋渡ったら新聞社がずーっと、そこんとこらへんも道のところいっぱいだったの。新聞社からでたミジンコをうちの釜場で燃やしてたね。
まもる:ミジンコ??
叔母:木のちっちゃい細かいやつをミジンコって呼んでたのよ。うちの脇の道路は今よりも車通りが少なかったから、刃がまーるいやつで薪を道の真ん中のところでギィィィィィって割ってたの。
祖母:でっかい機械でね。他にも印刷屋さんが、油ボロをくれてたね。燃やすのは怖かったけど。
まもる:燃やしてるのは薪とか、菖蒲湯の菖蒲とかだけだと思ってた。。。
あと、おばあちゃんはお店の営業だけじゃなくて、お父さんたちの学校のこともやってたんだよね?
祖母:学校の保護者会は行ったな。
叔母:でもその帰りに、みんなお茶飲んで帰ってくるんだけど、おばあちゃんだけまっすぐ帰ってきたのね。「店があるから私は帰ります」って。お茶飲まないで。「みんなはどっか寄ってくんのよ」なんて言ってたね。
祖母:あの頃は忙しかったのよ。
まもる:近くにYMCAとかがあったから、海外からのお客さんも来てたんだよね。おばあちゃん、言葉は通じなくても、ちゃんと入浴料はもらってたって聞いたよ。
叔母:おばあちゃんね、心臓が普通の人よりおっきいのね、おばあちゃんね。
祖母:体は小さいけど?
叔母:心臓はおっきいんだよ。おばあちゃんの若い時なんて、昔の写真でもあったけど今みたいに丸くなかったもん。
祖母:そんな丸い顔してらんないもん。寝る間もないほど忙しかったから。本当に。


私は、生まれた時から当たり前のように銭湯に関わり、季節ごとに新潟から旬の食材を送ってもらう生活を送ってきました。祖母の話を聞いて、それらは今まで生きてきた人たちが積み上げてきたものの上に成り立っているのだと感じました。

2022年の11月に92歳の誕生日を迎えた祖母は、現在店番をしておりませんが、営業時間中にお店に顔を出した時には、お店の掃除やお客さんへの声かけを怠りません。また、何かがあった際には一目散に駆けつけるなど、衰え知らずです。さらに、私が店番をしているとき、昔から稲荷湯を利用しているお客さんや、久しぶりに来店されたお客さんからは、祖母のことについてよく尋ねられ、また祖母とのエピソードも教えてもらいます。その度に祖母の存在無くして今の稲荷湯はないのだと感じます。

銭湯に限らず、先人たちから学ぶことは多いです。私たち湯の輪らぼも、人を知り、店を知り、まちを知り、湯の輪を少しずつ広げながら今後も活動をしていきます。



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