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焼津市こころの健康づくり講演会・講演録2021.12.21

焼津市こころの健康づくり講演会

自分の物語を生きる
~生きづらさを抱える人、支える人のために~

令和3年12月21日(火)焼津文化会館小ホール
主催:焼津市地域福祉課 
共催:静岡県精神保健福祉協会

子どもグリーフサポート浜松代表、
産業カウンセラー、障がいのある人のジョブコーチ
佐々木 浩則

●オンラインCDショップ

●挨拶
はじめまして。佐々木浩則と申します。今日は皆様の貴重な時間をいただきまして、本当にありがとうございます。少しでもお役に立てるように努めたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。

私は「子どもグリーフサポート浜松」という団体を浜松市で主催し、親を亡くした子どもたちのサポートをしております。私自身13年前に妻を亡くし、息子と2人で生きて来ました。息子ゆういちのパパ、“ゆぱ”と名乗って活動しています。風の谷のナウシカでナウシカを守るユパ様のように、私も息子を守り続けたいと思っています。

今日は少し長い時間になります。途中で写真もご覧頂き、後半は音楽もお聴き頂き、退屈にならないようにしたいと思いますので、どうぞ宜しくお願い致します。

●困難への感謝、グローバルありがとうプロジェクト
まず最初に、ある方との出会いについて、お話しします。

今年のはじめ、私は岩本光弘さんという全盲、全く目の見えない方と知り合いました。私のひとり息子は13歳の時に母親を亡くしました。岩本さんは13歳の時から3年かけて自分の視力を失い全盲になりました。絶望した岩本少年は、海へ身を投げようとしました。でもどうしても足が動かず飛び込めない。力尽きた岩本少年は、公園のベンチでしばらく居眠りました。すると夢の中に、少し前に亡くなった、自分を我が子のようにかわいがってくれた叔父が出て来て言いました「目が見えなくなったことには意味があるんだ。お前の頑張る姿がたくさんの人に勇気を与えるんだ」と。

その言葉に命を救われた岩本少年は、大人になり、ヨットでの太平洋横断にチャレンジしますが、遭難して海上自衛隊に救助されます。「世の中に迷惑をかけた」と世間から非難を浴びた岩本さんは、うつになって引き籠ります。もがき苦しんだ挙句、岩本さんは、少年の頃、目が見えなくなって死のうとした時に夢に出て来た叔父さんの言葉を思い出します「この困難には、必ず意味がある」。

再び立ち上がった岩本さんは挑戦を重ね、ついに全盲のヨットマンとして世界で初めて太平洋横断に成功します。

その経験をもとに岩本さんは「困難への感謝」、苦しく辛い中に意味を見出し努力することが、きっと「ありがとう」と感謝できる未来につながる、その思いを世界に伝えるために「グローバルありがとうプロジェクト」という活動を続けています。

私も今年1年間毎朝「ありがとうの言葉」と「感謝の気持ち」を岩本さんとわかち合う活動に参加して来ました。私自身、妻を亡くし息子と2人で生きてきた中で「困難への感謝」を実感しているからです。

⭐️困難に意味を見出し、乗り越え、感謝する力は、どこから生まれるのでしょうか?

●生きるとは、自分の物語をつくること
数年前、私は1冊の本と出会いました。「生きるとは、自分の物語をつくること」、心理学者・河合隼雄さんの対談集です。この本の中で河合さんは「耐え難い困難に直面した時、人は物語の力を使ってその困難を乗り越えることがある」と話されています。この言葉に出会い「まさに私はそれをしてきた。物語をつくり、その力を使って、妻の死を乗り越えて来たんだ」と思いました。

⭐️物語をつくる力、困難を乗り越える力は、どこから生まれるのでしょうか?

●今日のお話し
今日は、前半は「私の妻の死」、後半は「息子の障がい」と大きく2つのテーマに分けて、ひとり親家庭の「生きづらさ」と、そんな私たち親子の心を支えてくれた様々なできごとやつながり、自分や人を支えるとはどういうことなのかについて、私自身の体験をもとにお話しします。

誰かの支援をされている方、ご自身が「生きづらさ」を感じている方、そして悩まれている「ご家族」の方に、何か少しでもお役に立てば幸いです。どうぞよろしくお願い致します。

●妻の死
今から約13年前の3月、妻が自死(自殺)で亡くなりました。
仕事中の携帯に息子から電話がありました。電話の向こうで「ママが、ママが」と泣き叫ぶ息子の声が、
今でも耳に残っています。

妻の手に残された携帯には「裕一より先に帰って来て」という私宛のメールが、送信されずに残っていました。力尽きたのか、躊躇したのか、今となってはわかりません。

妻の冷たい指先と、可愛らしい靴下を履いた足先を、愛おしく感じました。悲しみと同時に「これでもう、妻が苦しむことはない」という安堵の気持ちもありました。それまで病院に付添いながら、妻の「死にたい」気持ちと日々共に暮らして来たからです。

●自死遺族の悲嘆、寄り添う姿勢。
一方、多くの自死遺族(自死で家族を亡くした人)は、家族が亡くなった理由がわからず「なぜ」「どうして」という疑問に答えが見つからず、長く苦しむ場合があります。

「いつまでも悲しんでいたら亡くなった人がうかばれない」「遺された子どもたちのためにも早く立ち直った方がよい」など、周囲が良かれと思ってかける慰めや励ましの言葉が、かえって遺族を苦しめることがあります。慰めや励ましで解決するものではないからです。

どんなに正しい心のこもったアドバイスでも逆効果になることがあります。もちろん慰めや励ましが有効な場合もあります。でも、突然家族を亡くして心が深く傷ついている時などは、相手の言葉や気持ちを受け容れる余裕のない場合があります。受け容れる余裕がないので、たとえ善意で慰めや励ましの言葉をかけられても「そう言われても、とてもそう思うことはできない」「あなたに何がわかるの?」と思い、そしてそう思ってしまう自分、周囲の善意を素直に受けとめることができない自分自身を責め、更に傷つき心を閉ざすことがあります。

そういう時は慰めや励ましよりも、自分の気持ちをただそのまま受けとめてもらえることが支えになります。その支えによって、浮き沈みしながらも自分自身のペースで回復してゆきます。ただ寄り添い話に耳を傾ける(これを傾聴と言います)※スライド「傾聴」。
そして「私に何かできることがあれば、いつでも言ってください」と支援を約束して見守る姿勢が大切だと思います※スライド「支援の約束」。
これは自死遺族支援に限らず有効な場合が多くあると思います。

⭐️「私に何かできることがあれば、遠慮なく言って下さい」と言葉をかけ、本人のペースや主体性を尊重して見守りたい。

●自死は心のがん
妻が亡くなったその場で検視のお医者さんが息子に言いました。「しかたなかったんだよ。お母さんは心のがんだったんだよ」。「こころのがん」その言葉が私を救いました。共に過ごす日々、心の中に生まれ増殖したがん細胞におかされて妻は亡くなった。自殺、自分で死んだんじゃない。心のがん、病気で亡くなったんだ。そう実感できました。

外では聡明で優しく皆に愛された妻は、後ろ向きな気持ちを含めたすべてを私にだけ話していました。
そして妻は少なくとも私よりはまっとうで尊敬すべき人でした。懸命に生きた人でした。

世の中では自殺に対して「心が弱い」とか「自分勝手」「命を粗末にした」と言われることがありますが、この13年近く、多くの自死遺族の話を聞いて来た私にはむしろ「世の中の悲しみや苦しみを引き受けて亡くなった」心優しい人が多いように思えます。

また、厚生労働省が作り閣議決定された「自殺総合対策大綱」でも、「自殺はその多くが直前に精神疾患の状態にあり、心理的視野狭窄、死ぬことしか考えられない状態に追い込まれて亡くなっている。自殺に“追い込まない社会”の実現が必要である」と報告されています。追い込まない社会の実現、自殺は個人だけの問題ではなく、社会の問題として取り組む必要があるということです。十数年前に、親を自死で亡くした若者たちが当時の総理大臣を訪ねました。総理大臣は彼らの思いを受けとめながらも「自殺は個人の問題だから国が取り組むことは難しい」と答えられたそうです。それが今では国を挙げて取り組む時代になりました。

⭐️自死を個人の問題にせず、追い込まない社会を実現したい

自死に限らず何か困りごとが起きた時に、誰か個人の問題にせず、みんなの事として考え協力することで良い方向に向かうことが多いと私は感じています。

●自死遺族わかちあいの会
「心のがん」という言葉をプレゼントしてくれた検視のお医者さんは、もう一つ、自死遺族わかちあいの会の案内を手渡してくれました。自死で家族を亡くした人たちがその思いをわかちあう場です。妻の自死について私は「どうして自分だけがこんなことに」「誰にも話せない、わかってもらえない」と孤独に感じていましたが、遺族会に参加すると「自分だけじゃなかったんだ」と思うことができました。多くの遺族が言います「日常生活の中で自死について話せる場はない。誰にも話せない。聞いてもらえない。この自死遺族わかちあいの会だけが話せる場」だと。

自死遺族はなぜ長く孤独に苦しみ続けるのか、長年私はそのことを考え続けていますが、自殺に対する世の中の偏見(無理解や否定、批判、拒否反応など)がその理由だと私は感じています。そのため誰にも相談できず孤立している遺族がたくさんいます。

私は妻の自死を「否定も肯定もしない」と言い続けています。肯定もしませんが、自死を否定することは、妻が生きたことをも否定することになるように思えるからです。自死は心のがん、病気だとすれば、他の病死や事故死と区別する理由は何でしょうか。あるインタビューで質問されました「それでも、自殺はなくさなければいけませんよね」と。私はお答えしました「ええ、他の死と同じようにね」。

⭐️自死への偏見・差別をなくしたい。亡くなった方や遺族の尊厳を守りたい。

自死を肯定するわけではありません。病死や事故死もできる限りなくしたい。それと分け隔てしてほしくないということです。心のがん、病気の一つとしてなくすことに取り組みたいと考えています。亡くなった方や遺族の尊厳を守りたいと願います。

●時には嘆き、時には笑い、浮き沈みしながらも表情や姿が確かなものになっていく
これは私が10年以上、自死遺族わかちあいの会に参加していて実感し大切にしていることです。会のルールは「言いっ放し、聞きっ放し」です。自分のことだけを話し、他の人の話に意見やアドバイスはしないことになっています。

自死遺族と言っても、一人ひとり境遇や思いは異なります。よかれと思う言葉も相手のためになるとは限りません。先ほどお話ししたように、むしろ傷つくことも多い。言いっ放し聞きっ放しだからこそ、安心して自分の思いを打ち明けることができます。

自分の思いをただ受けとめてもらえ、そして他の人の話に共感や気づきをもらいながら「時には嘆き、時には笑い、浮き沈みしながらも表情や姿が確かなものになっていく」。一人ひとりが本来持っている力と自分自身のペースで、時間をかけて回復していくのだと感じています。これも自死に限らないことだと思います。

⭐️それぞれの人の思いをそのままわかちあう。参加者も支援者も、他人に評価や意見やアドバイスはしない。それが自死遺族わかちあいの会。

自死遺族に限らず本人が求めていれば、周りの人からの意見やアドバイスはためになるかもしれません。でもある支援の専門家が言われました。「たとえアドバイスを求められても、その8割は、実はアドバイスがほしいのではなく、自分の話を聞いてほしいのです」と。だからカウンセラーも傾聴、話を聞くことに徹します。話に耳を傾けることで、本人が頭と心を自分自身で整理することを手伝います。

もちろん相手がある程度心が健康な状態で、他人の気持ちを受け容れる余裕があれば、意見やアドバイス、慰めや励ましは、対等なコミュニケーションとしてよい場合も多いと思います。でも相手に対等なコミュニケーションをする余裕がない時には言葉を控えたほうがよい。相手の状態を見てそれを判断できることが大切だと思います。

●自分の物語、人それぞれの物語を生きる
個人の人生を考えた時、正しい正しくないと、本人以外の誰かが判断することは難しいと私は思っています。その人自身の「納得感」を尊重したいと思います。

私は、亡くなった妻が神さまになって、息子を見守り導いてくれる物語をつくり、その物語を実現するために生きて来ました。そうすることで妻は私を許し応援してくれると思いました。他人から見れば「自分の妻の命を守れずに何を勝手なことを」と思われるかもしれません。でも少なくとも遺された息子を守り育てるために、私には必要な物語でした。後悔や反省で息子を守ることは私にはできませんでした。

またその一方、夢を持ち夢に向かって努力することは、心が深く傷ついた人には難しいかもしれません。でも物語は、必ずしも前向きなものでなくてもよいのです。どんなに辛く悲しい物語でも、本人が納得できるものであればよいのではないでしょうか。

そういう意味で、私は自分の物語を生き、人それぞれの物語を大切にしたいと思っています。

●生きるいのちだけでなく、亡くなろうとするいのち、亡くなったいのちとも大切につながりたい。
物語がいのちを支えると私は思ってきました。でもある遺族と出会いました。自分独り生き残ることに意味を見出すことができず、自分も死ぬこと以外考えることができない状態でした。何度話を伺っても支える方法が見つからない境遇でした。

私たち支援者は「死んではいけない」という「否定」の言葉は使いません。更に追い込むことになりかねないからです。「死にたくなるほどの、その気持ちを聞かせてください」とお願いします。でもこの方にはそれも支えになりませんでした。「物語がいのちを支える」とも思えませんでした。医療にお任せするしかありませんでした。その方と出会い、そして私の妻の死を振り返って思うのはこのことです。「生きるいのちだけでなく、亡くなろうとするいのち、亡くなったいのちとも大切につながり続けたい。」

もう一つ、別の例をお話します。息子と私にとって「音楽のお母さん」と言うべきピアニストがいました。彼女はがんに罹り余命宣告を受けました。彼女の息子さんは彼女に残されたわずかな日々を、毎日ピアノを弾いて過ごしてほしいと願い、会社員を辞めてお母さんのために店を開きました。その店で毎日演奏するうちに、余命宣告を受けた彼女のがんが治りました。テレビのドキュメンタリー番組にもなりました。

でも結局がんが再発し、いよいよということになった時、彼女は自分の人生のさよならコンサートを4日間にわたって、息子さんが作ってくれた店で開きました。「自分の人生の、さよならコンサート」。

私は自分の息子に言いました「最期まで大切にお付き合いさせていただこう。そうすればきっと神さまになって、ママと一緒に裕一を見守ってくれるから」と。毎日通い、最終4日目の彼女の演奏が終わった後、私と息子でチャップリンのスマイルという曲を演奏しました。彼女の息子さんも一緒に演奏して下さいました。彼女はその演奏を、目を閉じてじっと聴いておられました。

私たちの演奏が終わり、彼女を見送った後、さっきまで彼女が腰かけていた椅子に私は座り、同じように目をつむり「彼女は何を思いながらここで聴いてくれていたのだろう」と思いました。その後まもなく亡くなられたと知りました。

彼女も神さまになって、息子を見守ってくれています。

●必要な支援に直接つなぎ、協力して見守ることの大切さ
話は戻りますが、妻の葬儀の2日後に初めて参加した自死遺族わかちあいの会は、大人が辛く悲しい思いをわかち合う場でした。母を亡くした13歳の息子が参加するのは辛かったと思います。

その場でスタッフが「親を亡くした子どものつどい」を行っている東京の団体に電話をして息子をつないでくれました。それ以来私は自死遺族わかちあいの会、息子は東京の遺児のつどいに通うことになりました。遺児のつどいでは私も保護者仲間に支えられました。そんなご縁によって私たち親子は、全国の遺児・遺族当事者や支援者のネットワークにつながり、多くの仲間と共に歩み始めました。

このように私と息子は、検視医やわかちあいの会のスタッフのお陰で最善の支援につながることができました。だから他の全ての遺族にも同じような支援が届くことを願っています。情報を選ぶのは本人です。でも知らない情報は選ぶこともできません。だからまず提供する、押し付けることなく情報を提供することが大事なのだと思っています。

浜松市精神保健福祉センターは、自死遺族わかちあいの会の案内と、突然家族を亡くして困っている遺族が相談できる窓口の一覧を作成して13年前から配布しています。それが私たち親子を救ってくれました。私は浜松市の会議でそのことを話しました。やがて市が全家庭に配布する「暮らしのガイド」や毎月配布される市の広報にも情報が掲載されるようになりました。同じような動きが他の地域でもあり、2017年に改訂された国の自殺総合対策大綱に、重点施策の一つとして「遺族等の総合的ニーズに対する情報提供の推進等」という項目が追加されました。

⭐️情報を提供し、必要な支援に直接つなぎ、協力して見守りたい

●ブログ「ゆぱの家」~物語を生きる~
私は、自死遺族と言うよりは自死遺児の父として生きてきました。息子「ゆ」ういちの「パ」パ、「ゆぱ」と名乗りました。遺された息子の命と心を守るために生きてさえいれば、妻は、妻を守れなかった私を許し、見守り応援してくれると思いました。いつしか私は「神さまになった母親に、見守られ導かれて生きる息子の物語」をつくり、その物語を実現することが私の役割であり、唯一の生き甲斐、生きる支えになりました。そして何かよいことがあれば「ママのお陰だね、ありがたいね」と息子と感謝しながら暮らすようになりました。

息子と2人になり、もう家を建てる必要はなくなったと思いましたが、将来、息子がいつでも帰ることができる故郷(ふるさと)はつくってやりたいと思い、インターネットで「ゆぱの家」というブログを書き始めました。「神さまになった母に、見守られ導かれて生きる息子の物語」を毎日のように書き続けました。そして、その物語を実現し続けるために暮らしました。

転勤先で近くに身寄りのない父子2人暮らし、精神的な余裕はありませんでした。毎晩、息子が眠ると、お酒を飲みながらブログを書き、そのままソファや床で眠り、明け方に凍えて目が覚めて布団に入ることも度々ありました。5年間はアルコール依存だったと思います。飲まない日は1日もありませんでした。ブログの読者が増え、5年間で1,500号までブログを書き続けました。

⭐️感謝して、物語を生きる

●継続は力、継続こそ力
それまでの人生、器用貧乏だった私が、継続は力、継続こそ力ということをこれらの活動を通して学びました。言い方をかえれば、続けること以外に頼れるものがなくなっていたのだと思います。

物語を生き続ける。物語を生きる中で、たくさんの出会いやできごとがありました。それらすべてが物語を彩り、かたち作り、確かに見守り導かれていると実感し、感謝できるようになりました。

ある時、自死遺族であることを新聞記事で公表する機会がありました。私自身は妻の自死を受け容れていましたが、息子の本心を聞いたことはなく不安がありました。新聞記事のことを息子に話すと「ママの自死はいいけど、、、」と答えました。息子も母親の自死を受け容れていることを知り安堵しました。

⭐️感謝して自分の物語を生き続ける、多様なつながりの中で

※おろくぼ、剣道、フットサル、音楽の写真

●ピアサポート
妻が亡くなった翌年、私は浜松自死遺族わかちあいの会の代表を引き受けました。「お世話になってきたのだから、できることはさせていただきます。できないことはできませんが」という気持ちでした。その後今まで12年間同じ気持ちです。

市の自殺対策会議に遺族代表として参加し、全国自死遺族総合支援センターの理事として当事者の立場で活動に参加してきました。ピアサポートと言いますが、他の人を支える役割を担うことが私自身の支えにもなりました。

浜松わかちあいの会は、13年前に始まった時から浜松市精神保健福祉センターが主催し、全国自死遺族総合支援センターの支援を受け安心して続けて来れました。とても感謝しています。浜松市以外からの参加も歓迎します。

⭐️当事者として生きることを、大切にしたい。

●遺児支援
自死遺族わかちあいの会は、この10年以上かけて全国各地に100ヶ所以上できたのですが、遺児支援の場は限られています。大人と違い親を亡くした子どものサポートは、心身両面の安全配慮がより一層必要です。また親を亡くした子どもの中でも、自死遺児のサポートは特に難しい状況にあります。自殺に対する世の中の偏見が強いため、多くの子どもは親の自死を知らされずに育ちます。年月が経ってから知ることによる新たな傷つきもあり、できれば早いうちに知らせた方がよいとも言われるのですが、世の中の目を恐れてそれができない親もたくさんいます。我が子には絶対に知られたくない。そのためには周囲にも知られてはいけないから誰にも相談できないと孤立する親がおられます。

私はそのお気持ちを尊重した上で、まずはその親自身がパートナーの自死を受け容れることができるようにと願い寄り添います。
いずれもし子どもが知り「お母さんは自殺だったの?どうして教えてくれなかったの?」と言って来た時に、「そうだよ。自死はこころのがん、病気でなくなったんだよ。それに、亡くなったことや亡くなり方よりもお母さんが一生懸命に生きたことを大切にして受け継いで来たよね。神さまになったお母さんと一緒に暮らして来たよね」と、子どもの目を見て答えられるようになってほしいと願っています。そんな親子のためにも自殺に対する世の中の偏見をなくしたいと願って活動しています。

私は数年前に「子どもグリーフサポート浜松」という団体をつくりました。アメリカ、全米500ヶ所で長年にわたって遺児の支援を続けるダギーセンターのノウハウを学び「身近な人を亡くした子どものつどい」を季節ごとに行っています。病死、事故死など死因は問いません。これももちろん他の地域からの参加も歓迎します。

でも季節に1度のつどいで遺児をサポートできるとは思っていません。子どもを支えるためには共に暮らす保護者を支える必要があることを、私は自分の体験から実感しています。親を支えることで子どもを支えたい。なのでメールなどによる保護者の支援も行っています。

⭐️子どもを支えるためにも、保護者を支えたい

※つどいのチラシ、写真

●つどい「大切なもの、たからもの。」
妻が亡くなったのは2009年3月10日。その丁度2年後の2011年3月11日に東日本大震災が起きました。

春に突然家族を亡くし、これから先ずっと春を厳粛な気持ちで迎えることになった私は、同じ春に被災された方々を仲間だと思いました。息子と私はそれまでの2年間、神さまになった家族に見守られ導かれる日々を過ごしてきました。東北の空にたくさんの神さまが生まれられた。これからの長い長い復興の道のりを見守り導かれるのだと思いました。仲間に会いたい、神さまに会いたいという思いで東北に向かいました。たくさんの仲間や神さまに出会い、つながることができました。

時を同じくして息子は、九州の屋久島にある通信制高校、屋久島おおぞら高校に在籍しました。そのご縁で今度は親子で屋久島に通うことになりました。ある時、私のブログ「ゆぱの家」の読者だった面識のない女性から「もし屋久島に来ることがあれば手伝いたい。親子のコンサートを開きたい」とメッセージが届き屋久島に導かれました。屋久島で暮らすテント村やコンサートをする音楽スタジオを紹介してくれて、そこで私たち親子のコンサートを開いてくれました。

その女性は私たちが暮らす浜松の近くから屋久島に移住されたのでした。そしてその女性から紹介されて寝泊りしたテント村の世話人は、私たち家族が生まれ育った大阪から移住された方でした。屋久島の港に迎えに来てくれたその場で言われました「ブログを読みました。私の妹はゆぱさんの高校の後輩、父はゆぱさんの大学の先輩です」と。そしてコンサートをする音楽スタジオのオーナーは、私たちが東京で暮らしたご近所の目黒区鷹番から移住された方でした。私たち家族が暮らした大阪、東京、浜松、3つの地域からそれぞれ偶然屋久島に移住した方々にお世話になり、屋久島も私たちの大切な場所になりました。

屋久島で息子と私は「大切なもの、たからもの」という音楽のつどいを始めました。大切なものを探している人、見つけて大切にしている人、なくして悲しんでいる人など、それぞれが、大切な母親を亡くした息子裕一のピアノを聴きながら自分の大切なものに思いを巡らせる、そんなつどいです。

⭐️物語の力、音楽の力

※東北、屋久島の写真

~後半のお話し~

●障がい診断、与えられたもう一つの世界
物語の力、音楽の力、たくさんの仲間との確かなつながりの中で、私たち親子は家族の死を乗り越えたように思えました。息子も周囲に見守られ、毎日母親に感謝の祈りを捧げ、伸び伸びと暮らせるようになりました。

ただ日々の息子の生活にはどこか難しさがありました。私は「母を亡くして心が閉じているのかもしれない。次第に心が癒えれば普通に暮らせるようになるだろう」と信じていました。

そんなある日、テレビで発達障がいに関する番組を観ました。「気づくのが遅れて大人になってからでは生きづらさが複雑化することがある」と知り「息子ももしかするとそうかもしれない」と不安になりました。そこで自死遺族支援でお世話になっていた精神科医に検査をお願いしました。結果は知的障がいでした。

悩んだあげく私は「それならば息子の責任ではない。今まで本当によくがんばってきた。これからはそちらの世界で暮らせばよい」と思いました。そして「また1つ、大きなネットワークを頂いたなあ。この数年間、自死遺族と支援者のつながりの中で暮らして来れた。障がいも世界中に広がる大きなつながり。自死と障がい、この2つのつながりの中で生きて行けばよい。人生を迷う必要がなくなった」と思いました。

⭐️自死と障がい、この2つのつながりの中で生きて行けばよい。人生を迷う必要がなくなった。

●息子のひとり旅
私は「即興演奏ピアニストとして暮らしたい」と言う息子のために考え、大学に進学するかわりにワーキングホリデーの制度を使い、世界中のいろんな国で音楽を通じた交流をして暮らせばよい。それが息子の人生を支え豊かにするだろうと思っていましたが、知的障がいと知るとあきらめざるを得ませんでした。それでも私は息子の可能性を閉ざしたくなかったので、一番安全と思える国ニュージーランドで1年間、ワーキングホリデーを過ごさせることにしました。

高校時代、息子は浜松から名古屋まで毎日往復5時間の通学や屋久島へのスクーリングなどで、ひとり旅に抵抗はありませんでした。ニュージーランドへの渡航前には、数ヶ月をかけてこれまでお世話になった方々を訪ね、東北青森から九州屋久島まで、お礼参りの全国一人旅をさせました。「お陰で高校を卒業できました。ニュージーランドに行ってきます」と。

ニュージーランドでは半年間、語学学校の寮で暮らしました。ロビーに自由に弾けるピアノがあることが学校選びの決め手でした。ピアノが息子の心を支え、コミュニケーションを助けてくれるだろうと思いました。学校の日本事務所のスタッフを通じて現地のサポートをお願いすることで、何とか無事に半年のカリキュラムと寮生活を終えました。

その後はご縁をたどって、ニュージーランド国内を転々とさせました。はじめはバックパッカーズ、日本ではユースホステルと言われる宿を息子は泊まり歩き、街角でピアノを弾いて小銭を稼ぎました。その後クライストチャーチの教会にお世話になり、そこで紹介されたヤギ農家(子ども8人)にホームステイしました。教会でもホームステイ先でも、毎日ピアノを弾いて交流することができ、ひとりで何とか無事に1年間を過ごして帰国しました。北島のオークランドから南島のテアナウまで、渡航前に息子が日本でお礼参りの旅をした青森から屋久島までと同じように、ニュージーランドを北から南まで縦断して暮らしました。

息子のいない1年間、初めて独り暮らしになった私は、それまでは息子のために息子のピアノで歌っていましたが、これを機会に「自分の歌」を歌いたいと思い、学生時代に好きだったイヴ・モンタンのシャンソンを練習し、ステージに立つ自分の夢を叶えました。

⭐️障がいがあっても、人生をあきらめない。父子それぞれの、自立の可能性を感じた。

※ニュージーランドの写真

●二次障がい、孤独と疎外感によるパニック。
帰国した息子は、自分のピアノカフェを持ちたいという夢を持ち、見習いをさせてほしいと知り合いのカフェやレストランを自分ひとりで回りました。でもどこも障がいのある息子にかまう余裕はなく、すべて断られました。そこで私は、息子を診断した医師が紹介してくれた福祉事業所が運営する作業所カフェを息子と見学しました。ピアノを弾きながら働けるのではないかとのことでした。でも息子はその作業所カフェを拒否しました「僕は障害者じゃない。パパが検査を受けさせたから、僕は障害者になってしまった」と。

冒頭にお話しした岩本光弘さん、彼は失明した時にお母さんに言ったそうです「どうして僕を生んだんだ。生まれて来なければ良かった」。お母さんは岩本さんの太平洋横断成功と東京オリンピック聖火ランナーの晴れ姿を見て、先日他界されました。私も見倣いたいと思います。

自分の障がいを受け容れない息子に私は「どうやって生きていくつもりか」と怒りましたが、しかたなくしばらく見守ることにしました。私は会社員ですから他に身寄りのない息子は自宅でひとり、居場所が見つからない息子は、ニュージーランドでやっていたストリート演奏を自分で始めます。騒々しい街中に出る勇気はなかったので公園で演奏を始めました。すると公園に来る人たちにアドバイスされます。公園でやっても仕方ない。駅前でやった方がいい。息子はその声に背中を押され駅、前で演奏を始めました(浜松ストリート写真)。

でも、ニュージーランドの時のような温かい反応はなく高校生たちにからかわれたりして、次第に孤独感、疎外感を募らせた息子はパニックを起こします。家の前の公園の駐車場で叫びが止まらなくなりました「僕をどれだけ苦しめたら気がすむんだ!」。仕事から帰宅した私は、周囲の人に向かって叫び続ける息子を見つけ、自宅に連れて帰り、途方にくれました。夜、精神科夜間救急に電話しても受診を断られ、途方に暮れて警察を呼びました。駆け付けた警察官と役所の人が「息子さんもお父さんも、休む必要がありますね」と対応してくれて、息子は入院しました。

2か月半、仕事帰りに毎晩見舞って看病しました。病院では落ち着き、ある居場所をつくって退院したのですが、世の中の刺激で再び孤独感と疎外感が増し、入院前よりも一層ひどい状態になり、街で暴れるようになりました。刺激の少ない病院の中から社会に出た時の危険性については、誰にも教わることができませんでした。薬が増やされ、アカシジアという副作用で手足や頭がいつも震え、からだは動かなくなりました。息子をそこまで追い込まないために、私は何をしなければいけなかったのでしょうか?どうやって?どうすればそれができたのでしょう。それともやはり、障害者は大人しく、障害者の暮らしをさせるべきだったのでしょうか。

でもそうしていれば、息子は今のように、自分の想いをピアノ演奏で自由に表現できるようにはならなかったでしょう。息子は入院中も音楽のステージには立ち続けました。退院後、回復の見通しもなく悪化する中「息子の人生が終わってしまう、始めなければ始まらない」と思い詰め、私は息子の演奏のレコーディングを始めました。(CD3枚写真)この3年間で作った息子の3枚のCD、ピアノソロアルバムには、息子の病気との葛藤、癒し、祈りが刻まれています。この時期だからこそ記録できた音です。それを通して、人間としても、音楽性も、確かに成長し深まりました。それが生きることそのものだと私は感じています。

このCDに収められた息子の演奏を少しお聴き頂きたいと思います。3枚のCDから選んだ4曲、それぞれ少しずつお聴き下さい。

(CD1枚目写真)
・1曲目、CD第1作『One Night』、「ある夜」という意味です。回復の兆しが見えない中「始めないと始まらない」と決意して録音しました。鮮烈な即興演奏で始まった幻美な世界は、12曲かけて心の奥底にそっと舞い降り、One Night(ある夜)の物語を閉じます。

(CD2枚目写真)
・2曲目、CD第2作『Mom and Cherry Blossoms』(ママと桜)。母親の命日に録音されました。強い情念の演奏で始まります。

・3曲目、CD第2作で6曲かけてさまよい、その末に辿り着いた桃源郷。どこまでも穏やかな、すべてを超越した世界。もはや旋律がどんなに躍動しても葛藤も情念もない、澄み切った世界が広がります。

(CD3枚目写真)
・4曲目、CD第3作『12 Years』(12年間)。神さまになった母に見守られ導かれた12年間の歩みの結実として、13回忌に録音されました。

(CD3枚写真)
お聴き頂きありがとうございました。「回復途上にあっても、音楽や心は深まる」その証しが刻まれた3つの物語です。

今日最初にお話しした「生きるとは、自分の物語をつくること」、自分の物語を生きることを、これからも大切したいと思います。

⭐️二次障がいとの長い闘いが始まった。息子の人生を取り戻すことをあきらめない。

パニックやトラウマで傷ついた心を癒すためには本当に長い時間がかかります。5年経った今も、息子は毎日唸り続け、うつむいて暮らしています。

●息子と同じ世界で生きるために転職、障がいのある人の就労支援
私は息子と同じ世界で生きようと思い、障がいのある人の就労を支援する仕事に転職しました。

息子と暮らす中で、自分1人の力で支援することの限界を感じていた私は、常にできる限り多くの人と協力して支援することを心がけています。私は産業カウンセラーの資格をとり、障がいのある人たちの仕事と生活のすべての困りごとに耳を傾け、本人の主体的解決に寄り添い、その上で必要に応じてその人の上司や産業医、医療、福祉、就労支援、それぞれの専門家につなぎ、協力して支援して来ました。

私がその仕事に就いてから現在まで5年間の間に職場に入って来た、精神を中心とした様々な障がいのある多くの社員、その全員が働き続けています。もちろん関係者皆さんのお陰です。障がいのある人たちの就労は量から質への転換、より良い働き方への転換が必要と言われていますが、私も障がいの有無に関わらず、誰もが共に尊重し合い協力し合って働く職場づくりのために、微力ながらできることを続けたいと思います。

⭐️障がいの有無に関わらず、誰もが尊重し合い、支え合う社会を実現したい

●障がい受容との闘い
17歳で受けた知的障がいの診断を、息子は受け容れることができませんでした。「僕は障害者じゃない。パパが検査させたから、僕は障害者になってしまった」。

私は恩師に相談しました。日本の障がい者雇用のかたちを、最初は身体から、そして知的、精神、発達と、国の立場で50年近くかけてつくって来られた職業リハビリテーション学の第一人者です。「息子が自分の障がいを受容できなくて困っています」と相談すると、先生に言われました。「障害受容は、上から目線の言葉だから使わない方がいい」と。私はその意味がわかりませんでした。受容せずにどうやって暮らしていけるのかと。でも私は恩師のその言葉を、それ以来ずっと考え続け、今では私なりに理解しているつもりです。

障がい当事者研究の第一人者である東京大学の熊谷晋一郎先生、ご自身も重度身体障がいのある小児科の医師ですが、彼もこう言われます「障がいは、その人自身が持っているものではない。人と人の間に起こるものだ。健常者と言われる多数派(マジョリティ)の人たちは、必要に応じて社会に多くの仕組みや環境をつくり、それに依存している。そしてそれが当たり前になっていて依存と感じていないだけである。障がいのあるマイノリティ(少数派)の人たちにはそれが保障されていない。自立とは依存しないことではない。自立とは依存先をたくさん持つこと、依存が当たり前になることである。逆に依存先が1つしかないから依存症と呼ばれる状態になるのだ」と。

ですから私も、共に働く社員に必ず話します。「自立は自分ひとりでできるものではありません。必要な支援を活用することで初めて可能になります。だから何でも相談してください」と。よく就労支援の世界で話題になります「どこまでが支援で、どこからが甘え、甘やかしなのか」と。私は甘えという言葉を使いません。「他人がどう感じようと、本人が困っているのなら助けましょう。丁寧に話を聞いて、できることできないことを相談検討した上で、本人と一緒に落としどころ、できることを探しましょう」。そうすることで本人も主体的に取り組んでくれることが多いです。厚生労働省の言う「障がいのある人への合理的配慮」に、私はそういう姿勢で取り組みたいと考えています。

⭐️障がいは人と人、人と社会の間に起こる。マイノリティへの合理的配慮が必要。

●障がいを受容しなければいけないのは誰か?
私は毎日、仕事が終わると作業所に息子を迎えに行きます。帰りの車の中で息子に「今日はどうでしたか?」と尋ねます。「朝、Aさんに、辛くて落ち着かなくて震えが止まらない話と昨日怖かったことを聞いてもらった」「Aさんはちゃんと聞いてくれましたか?」「んー(yesの意味です)」「Aさんに聞いてもらえてよかったですか?」「んー」「よかったね。それから?」と、毎日全く同じやりとりでその日の様子を聞き取ります。同じパターンで聴き取ることで本人も安心して話せますし、私は小さな変化も漏れなくキャッチすることができます。そして、困りごとがあればまず私が受けとめて頭と心の整理を手伝うことで落ち着かせ、その上で必要な時は作業所などの関係者に相談します。

知的障がいがあると、自分で困りごとに対応し自分の気持ちに折り合いをつけることが難しいことがあります。対応や折り合いが不充分な状態で溜まったストレスは本人の心の中で複雑化し、二次障害や問題行動として表に現れます。そうなると、もはや本人は説明もコントロールもできず周囲も理解できないので、対応がとても難しくなります。そうならないために、そして本人が自分の人生を生きるためには、どんな小さなことでも周囲に話して理解してもらい、本人の内側に押し込めないことが大切だと考えています。私の息子は二次障害としてのパニックや問題行動が出てしまった後ですが、とにかく話す事を繰り返し徹底しています。お陰で自分を傷つけることや物や人に当たることが次第に減って来ました。孤独感や疎外感が減り、世の中や自分に対する信頼と安心が少しずつ回復して来ました。それは樹木が年輪を刻むように少しずつしか進みません。まだまだ長い時間がかかります。障害受容、障がいを受容れる必要があるのは息子本人ではなく私だったのだと気づきました。

⭐️障がいを受け容れなければいけないのは、息子ではなかった。

※機織り写真

●100人の母親代わり
私は妻を亡くし、息子と2人で暮らし始めた、その年に思いました。母親の代わりまで、私にはできない。1人では、育てられないと。でも誰か1人に、母親の代わりをお願いするのも難しい。そこで、1人の母親の代わりに、100人の母親がわりを作ってやろう。100分の1ずつなら、お願いできるかもしれないと思い、老若男女、たくさんの人と、つながり続けてきました。

⭐️1人の母親の代わりに、100人の母親がわりをつくってやりたい。

●困難への感謝
今日お話ししているようなことを、私は妻の死や息子の障がいによって学びました。

妻の死を否定も肯定もしない。亡くなったことや亡くなり方ではなく、妻が確かに生きたことを大切にして、受け継いで暮らしたい。

亡くなる前に妻は言いました「どうして私の話をちゃんと聞いてくれないの?」私は妻が繰り返す辛い話を一生懸命に聞いているつもりでした。その上で「でもね、その人の言葉はこういう意味なんじゃないか、こういう風に考えた方がいいんじゃないか」などと、私なりに良かれと思ってアドバイスしていたつもりです。でも妻にとっては、せっかく話を聞いてもらってもその後にアドバイスされると台無しになってしまう。妻の気持ちを受けとめたことにはならないということが当時の私にはわかりませんでした。妻の死によって傾聴、話に耳を傾け受けとめること、そして本人が自分で回復する力を信じて寄り添うことの大切さを学びました。それがその後の息子との暮らしや障がいのある人たちの就労支援に役立っています。それを教えてくれた妻に感謝しています。

そして息子の障がいからもたくさんのことを学び続けています。ダイバーシティ&インクルージョン(多様性と包摂)、人権の尊重、能力とは、個性とは、人が人の中で生きるとは、共に生きるとは。そういったことを妻の死と息子の障がいから学んでいます。

⭐️困難を通じて得たもの、与えられたものへの感謝、それが私の人生をつくる

●すべての物事は移り変わる。でも、いのちは永遠である
障がいのある人の親の多くは「親亡き後」への心配が絶えません。私が亡くなった後、息子は孤独で不憫な暮らしをするのではないか。させたくない。幸せに暮らしてほしい。親亡き後の息子の孤独を心配します。

フォレストガンプという25年前にヒットしたトム・ハンクス主演の映画をご存知でしょうか。私の息子はこの映画の主人公にとても似ています。そっくりです。私は自分の息子の物語をフォレストガンプ2だと思っています。息子自身が自分の人生を選べるように環境と選択肢を与えることが私の役目だと思っています。

またある時私は「葉っぱのフレディ」という絵本に出会いました。「すべての物事移り変わる。でも命は永遠である」ということを伝える物語です。100歳を超えて現役医師だった日野原重明先生はこの絵本を愛し、自ら子どもミュージカルを企画し公演されていました。

私は「母が亡くなり、やがて父である私が亡くなっても、両親のいのちはお前の中で永遠に生き続ける。寂しく思わないでほしい」という私の想いを息子に伝えるために、息子と2人でこの物語を演じ始めました。息子のピアノに合わせて私が物語ります。

「僕は、死ぬのが怖いよ」とフレディが言いました。
「そのとおりだね」とダニエルが答えました。
「この木も死ぬの?」
「いつかはね。でも“いのち”は、永遠に生きているのだよ」とダニエルは答えました。

「葉っぱのフレディ100回公演」と名付け、最初から100回やる、一生続けると決めて始めました。ホームコンサートでも大きなステージでも演じています。息子のピアノと私の語りを重ねず交互に演じているのは、やがて私がいなくなっても、息子がひとりでもこの物語を演じることができるようにとの想いからです。

いつか外国でも演じることができるように、原作の英語まじりでも演じています。息子もたまに自分から英語版の絵本をニュージーランド訛りで音読しています。いつか1人2役で演じることができるようにしようとは、息子にはまだ話していませんが。
※葉っぱのフレディ写真

それでも親亡き後への私の不安はぬぐえません。そんな中、今年になって私は般若心経に出会いました。般若心経について調べて私は「葉っぱのフレディと同じことを言っている」「すべての物事は移り変わる。でも、命は永遠である」と言っていると感じました。そして「葉っぱのフレディ」は命が受け継がれていくという「時間の流れ」を表していますが、般若心経はそれに加えて「全てのものごとに実態はない。だから捉われなくてよいのだ」と説きます。

私はまた少し安心しました。障がいも孤独も捉われる必要はないと少し思うことができました。もちろん日々の生活の不安は無くなりませんが「捉われなくてよい」と思う事で、少し気持ちに余裕を持つことができ、逆に一歩一歩「親亡き後」に向けて準備していこうと、地道な姿勢をもつことができました。

⭐️すべての物事は移り変わる。でも、いのちは永遠である。すべての物事に実態はない。だから、捉われなくてよい。「親亡き後」に向けて地道に歩みたい。

※般若心経写真

●最後に
どうすれば自分や身近な人の心と命を支えることができるのでしょうか。

今日この場で最初に全盲のヨットマン岩本光弘さんのお話をしました。彼が16歳で目が見えなくなり死のうとした時に、夢の中で叔父さんが引き留めてくれた。その「物語の意味」を私は考えます。

叔父さんは既に亡くなっていましたが、岩本さんが自分だけの力で夢に叔父さんを登場させたと私には思えません。人の心と命を支える力はどこから生まれるのか。それは生前の叔父さんの岩本少年への愛情、そして岩本さんと叔父さんの信頼関係が夢に叔父さんを登場させ、岩本さんを救ったのだと私は思います。

産業カウンセリングでも学びます。「カウンセリングの知識や技術、それ自体は実はそれほど役に立たない。役立つのはカウンセラーとクライエントの信頼関係である。その信頼関係を支えにしてクライエント自らが回復するのである」と。だからよいカウンセラーはとことん傾聴、話に耳を傾けます。カウンセリングの知識や技術はその信頼を支えるものです。

⭐️“困難を乗り越える力”は、愛情と信頼、継続、多様なつながりに支えられる。

岩本光弘さんは、夢に出て来た叔父さんの言葉に命を救われた後、たくさんの困難を乗り越えて太平洋横断に成功し、東京オリンピック聖火ランナーを務めました。目が見えなくなって、歯ブラシに歯磨き粉をつけることさえ自分でできなくなったところから、毎日無数のトライアンドエラー、失敗と努力を重ねることで、そしてその道のりで多様な人とつながることで、どんな困難をも乗り越える力を身につけて来られたのだと思います。そしてその努力の継続を支えたのが叔父さんやお母さんとの「愛情と信頼」だと私は考えます。

今日のお話し、皆さんはどうお感じになられたでしょうか。お手元の「子どものつどい」のチラシに私の連絡先が載っています。ご感想などをメール頂ければ大変ありがたく思います。

私は息子への自分の想いをこめて、ある一つの短い「詩」を書きました。私自身が書いたその詩を息子のピアノに乗せて演じています。

その中の語りの部分をここで読ませていただいて、今日の私のお話を終わらせていただきます。
お聴きください。

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お母さん、素敵なお母さんだったよ。精一杯生きて、僕の事をとっても大切にしてくれて。そして今、お母さんは神様になって、僕を見守ってくれている。お陰で僕は、毎日希望を持って暮らせてるよ。ほんとにありがとう。

お父さん、障がいって何?障がいは、誰かが持ってるんじゃなくって、人と人との間に起こるって聞いたよ。だとしたらさあ、みんながみんなに優しくなればいいんじゃないの?そしたら障がい者なんて言い方、なくなるんじゃないのかなあ?

お父さん、街にはいろんな人がいるよね。なのにみんな同じじゃなきゃいけないの?こうすべきだとか、しちゃいけないとか。僕は僕のままでいたい。みんなその人のままでいいんじゃないのかなあ。

お母さんが死んじゃった事よりも、お母さんが精いっぱい生きた事を僕は大切にしたい。僕を産んでくれて、育ててくれて、ありがとう。僕は確かに、お母さんから命のバトンタッチを受けたよ。これからも僕を、見守っていてね。
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※「葉っぱのフレディ」父子写真

以上で私のお話を終わります。
ご清聴ありがとうございました。

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