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【不思議なお話集①】ユニコーンとの出会い

【不思議なお話集①】ユニコーンとの出会い 

7歳、小学校も2年目になるというのに未だ学校に馴染めずにいました。そんなわたしにも心が躍る時間がありました。今の時代なら世間の目はもちろんのこと、大抵の親がもそのようなことは許さないことでしょう。しかし当時のわたしは大降りの雨で視界が遮るほど降らない限り、学校から帰るや跳ねるように近所の雑木林へと向かい小さな秘密基地にもぐりこむと、そこで本を読むのでした。雑木林に近づくだけで風の方向によっては土の香り木の香りがしたものです。土、落ち葉、どっしりとした幹、虫の声、そこは時間の流れの違う異世界で、重いランドセルをおろしても簡単には身体から離すことのできずにいた憂さから、ここでやっと解放されたものです。  
 秘密基地は、樹齢100年はゆうに超えていると思われる木のうろでした。江戸やそれ以前なら樹齢100年若木なのでしょう、昭和の時代では珍しいものでした。その樹の盛り上がった根っこにはうろがあってランドセルをおろした小さなわたしは根っこに手をあてると、
「こんにちは、長老さん」

などと今思えば恥ずかしいほど無邪気に挨拶したものです。
「今日も遊びにきました。中に入らせてもらっていいですか?」
樹木は無論のこと返事をしませんでしたが、わたしは樹木の精霊なり森の守り神なり目に見えない存在が承諾してくれた気持ちでいたものです。うろは日常の憂さからのシェルターのようなもので、あらゆる雑音、不快、警戒、不可解を遮断してくれました。重荷からの解放だけではありません。リュックに詰め込んだ本を開けば、時の流れからも解き放たれたのです。樹木と本、それから異世界と一体化する時間は、過敏で傷つきがちな当時の心を癒しました。
 当時のお気に入りはといえば、おとぎばなしに昔話、それからファンタジーでした。子供は自然、フィクションに惹かれる、そのように
一般化できるのかはわかりませんが、少なくともわたしもフィクションを求めた一人でした。
 まるで大人がときどき避難場所として映画やら娯楽番組を見るように、子供だったわたしも現実逃避として架空空想の世界へ回避していた、と言えないこともありませんが、子供時代のごく素直な関心でもありました。うろのシェルターでネバーエンディングストーリーやフェルマーの冒険、そしてハリーポッター世代の多分に漏れずこの魔法界のおはなしも幾度となく読みました。アンデルセンやグリムの童話も勿論好きでした。白鳥の湖のおはなしが特に大好きで、湖への憧れは今でも新鮮に思い出されます。思えば湖が出てくる昔話はとても多いですね。白鳥の湖、白鳥にされた王子、みにくいアヒルの子、金の斧。湖、そして白鳥がわたしたちにもたらす純粋な美しさのイメージのためなのでしょう。そのように分析的に当時考えることもありませんでしたが、大人になりとある日のことを思い出す度、わたしは湖畔や神秘性をはらむ動物への憧憬について考えるようになったのでした。
 ある日のことというのは、小学2年のある秋晴れの日のことです。
その日は、いつものうろがどうしてか見つかりませんでした。わたしはいつものように疲労を覚えながら学校から帰宅し、ランドセルをおろしてから、玄関へと急ぎました。頭の中はすでに秘密基地での時間でいっぱいで、そこで読むことになる物語の続きのことを考えていました。外は秋の陽光がまぶしいくらいでしたが、母が台所から出てきて傘を差してきました。「今日天気予報は、夕方から雨よ。早めに返ってくるのよ。」という母の言葉に、まさか、と思ったのを記憶しています。折り畳み傘がリュックに入ってる、木が守ってくれる、とも思いました。それからわたしは雑木林へと急ぎました。
 しかし、長老の木がちっとも見つかりませんでした。ヘンデルの森にでも迷い込んだのでしょうか、それとも魔王の森でしょうか、いつ、どこでどのように、いつもの景色から道がそれたのかもわかりませんでした。 

 こどものわたしはいぶかしんだり「おーい。」などと言ってみたり、ふぅうとため息をついたりもしながら、落ち葉を踏みしめ踏みしめ、歩きました。葉っぱの音がさくさくからからと聞こえたのを覚えています。こうして黄色や緑、茶色の世界を歩いているとつんと土のにおいがたちこめてきました。雨が降る前のにおいです。それから5分ほど過ぎたころ、雨の代わりにあたりに霧が立ち込め始めました。とても急な景色の変化でした。森の天気はかわりやすいといいますが、自然界の気まぐれにわたしは雑木林で遭遇したのでした。
 あたりはまたたくまに別世界となり、まるで動画のワンシーンのように時を待たずけぶる白い幕がおりてくる自然現象の不思議に、小さなわたしは驚きました。冒険小説の世界にでも入り込んだような気持になりましたが、小さなわたしは顔を横に振り、幻想の世界に入り込んでしまうのを振り切ろうとしました。早く帰ってくるのよ、母の声がこだましたのです。

 どうしてあのとき不安や恐怖が先行しなかったのかが不思議でならないが、当時のわたしは白い霧のなかを感嘆するように瞠目しながらあたりを確認するように歩を一歩一歩ゆっくりと進めた。10歩ほど進んだと思う、目の前に一本の大木が現れた。現れたというよりも突然生えてきたように目の前にぬっとあらわれた大木の根元には、大きなうろがあった。当時のわたしが2人はゆうに入るだろう。わたしは、うろに入ってみたい欲求にかられた。寝そべることもできる新しい秘密基地となるかもしれないと内心喜んだ。勢いしゃがんだが、それはうろではなかった。地面に近くなった視線の向こうにはまぶしいぐらいの白い光が輝いていた。刹那がっかりしたが、わたしは子供らしい好奇心に駆られて腰を曲げ、四つん這いになり樹木のトンネルをくぐり抜けた。子供心のためだろう、そのトンネルは、5mも10mもあるように思われ、通り抜けたときに味わった誇らしい感覚は、逆しりとりゲームで一等賞になったときの感慨ほどもあった。
トンネルの先は相変わらずの濃霧であったが、これも自然現象の不思議か、私の目の前の霧が薄れそこに青緑色の湖が広がった。
 綺麗、と心が輝いたのを今でも記憶している。水色とエメラルドの世界だった。とても幻想的できれいだった。
 立ち込めた白い霧のため、湖の向こう岸は木々の輪郭がぼやけ、水面に浮かぶように見えた。エメラルドグリーンを少し濃くしたような木々は、湖畔にその姿を映していた。ずっと眺めていたかったが、ここでも顔を振りわたしは家に帰ろうと勢いをつけて振り返った。
が、おかしい、くぐり抜けたはずの大木がそこになかった。
たった今潜り抜けたばかりはず、どうしよう、すごい霧だから、迷ってしまったのだろうか、とわたしはきょろきょろと辺りを見回してから、湖畔に目を戻した。湖水は、やっぱりきれいで柔らかい景色だった。水面からも白い霧がけぶるようにゆらゆらとゆれていた。
 わたしは落ちていた小さな石を拾い上げて、すぃと湖水の方へほおり投げてみた。石は湖に吸い寄せられ、透明の水に溶け込むように消えた。波紋の小さなさざ波が生まれたが、水面からけぶる霧が消えるようなことはなかった。音は石といっしょに湖のなかに溶け込んだのろうか、そう思ったほどあたりは静かだったが、水面には波紋が次々と生まれていた。
ここからは、わたしの記憶が正しいのかどうか今でも確信をもてないでいることであるが、臆せず知るそうと思う。
わたしが生き物のような湖畔の水の様子を眺めていると、波紋の弧に沿うかのように濃い霧の中から、一頭の白い馬がすっと現れたのだ。
「おうまさん?」
わたしの声はこだますることはなかったが、白い霧よりも真っ白な馬は、こちらの声に応じたように微笑んだように思った。奥深いやさしさと静けさで称えられたような瞳だった。このときも小さなわたしに警戒心が起こるようなことはひとしずくもなかった。
 湖上にひずめを乗せた白馬の額には、一本の眩しい角がはえていた。
「角が生えてる。ユニコーン!」
わたしの声は高ぶっていたと思う。ここでもこだまは聞こえず、私の声もあたりの霧にでもなったようだった。
ユニコーンは微笑した。微笑したように思ったというほうが正確かもしれない。それから驚くことに声が脳に直接響きはじめた。
「人間のかわいいお嬢さん、こんにちは。地上の音が変わりはじめていますね。大きな雑音の中に、幾つもの透き通るように澄んだ魂の音が心地よく聞こえてきます。わたしたちは、そんな音のするこの地上にまた戻ってこようかと思案中なのです。」
「あ、あの、ユニコーンさんですか?」
誰かと言葉をかわすことも億劫がっていたわたしが、いつになくはきはきとし言った。ユニコーンの瞳に柔和な笑みが浮かび上がった。
「人間はこの光の渦を角だと呼びますが、そうではありません。これは第3の目から放たれる光の渦です。」
「え、そのおでこについてるのは角じゃないのですか?光なのですか?」

「えぇ、そうです。あなたがたのなかにも再び第3の目を取り戻しつつある人間がひとり、またひとり増えてきています。何万年ぶりでしょうか。
人は、許し愛し尊重し合う方法を見いだし、共有することを怠り、心はすさび争いばかりを好みました。地上の奏でる不協和音に、わたしたち一族はもはや耐えきれず、一度は地上を去りましたが、再びこの地に戻ってこようかと考えているのです。」
わたしは即座に、さき程よりは大きな声で、明瞭にこたえた。
「ここにきてもいいことないよ。
学校、つまらない。わたしはいつだって浮いちゃう。登下校は暑い。冬は寒くて凍えそう。家では、あぁしなさい、こうしなさいって言われるばかり。それに、地球は環境破壊が進んで、汚れてばかりだよ。きれいな水ももうどこにもないの。ここにきてもいいことないよ。」
ユニコーンは相変わらずのやさしい目のまま矢継ぎ早に問いを投げてきた。
「この景色をきれいと思ったのは、本当ではないのですか?その手にある書を楽しいと思うのは、本当ではないのですか?木のうろは温かく包んでくれていませんでしたか?それは本当ではないのですか?それらは地上でのたからものです。
この星ほど、彩に富んで瑞々しく豊かな音を奏でることができる星は他にありません。
だからもう一度、わたしたち一族は、この地におりて人々と進化の道を歩みたいと考えているのです。浄化と癒しの力をわたしたちはもっています。一方で人間は、あらゆることを可能にする想像力をもっています。
共に、この地をこの宇宙にふたつとない美しい星にしましょう。さぁ、かわいらしいお嬢さん、今日地上の様子を見に来て、こうして人間のあなたと会えたのはわたしの幸運でもあります。」
「わたしに会えたことが、幸運?」
わたしは、その後数年、この言葉を何度も何度も心の中で繰り返したのを憶えている。とても嬉しかったのだろう。
「なぜって、あなたの音は、とってもきれい。今日の邂逅の思い出に、あなたの額の奥深くにも眠っている第3の目を開いてあげましょう。出会いが人を変えることもあるのです。それがときにユニコーンであることもあるのです。」
小さなわたしは、喜んでいいのかどうかすぐにはわからずにいた。
「角・・じゃなくて光の渦が、そうやって角みたいにおでこから出るのですか?それ目立ちませんか?痛くないですか?」
それに、とっても素敵だけどなんの役に立つのかわからない、とわたしは心の中でつぶやいた。ユニコーンは穏やかに続けた。
「大丈夫ですよ。わたしたちの目には見えても人間の目には見えませんから。
第3の目は、智慧の目。お嬢さん自身の背中にまるで空を自在に飛べる大きな翼がはえたかのように、万物の瞬間瞬間を高い所から俯瞰しあるがままに観察できる目。静かに無執着の心で観察する明晰な目。
きっと、学校が今ほどいやじゃなくなりますよ。いいところもよくみえるからです。お父さんのきついお? ̄ツハも意図するところがよく見えます。お母さんが望んだ時にいつもぎゅっとしてくれるわけではなくても今までほど寂しくはありませんよ。お母さまがお嬢さんを深く深く愛していることが見えるからです。
暗くもなく、時の流れに抗うこともなく、拒絶せず、ないがしろにせず、お嬢さんのまわりで起こることを美しい見方で理解することができるでしょう。
お嬢さんが望めば
学校をより実りをもたらす場所に変えていくこともできるのです。変革の果の実る新しい種をまき、すでに芽が出ているものには水を注ぐことができるでしょう。
お嬢さんは、想像することをなんでも可能としていくことができる人間ですから。
あなたはとてもきれいな音がする人間ですから。」
「わたしから音が聞こえるの?どんな音?」
「とってもきれいな音ですよ。例えれば、この美しい湖を音楽にしたような。
地上で長い間根をはってきた慣習にも刻々と変わりゆく世の常識にも染まらない音。
愛と平和と許容の豊かさに強く共鳴する音。
素直な心の喜びから行動を続けることができれば、
幾万の歓びを生む可能性を秘めた音。
そんな音を出す人間がこの地に増えたのなら、わたしたちはここに戻ってきて、今度こそこの母なる大地で真の繁栄の道をともに歩けるでしょう。そのとき、きっとまたお会いしましょう。お嬢さん、さぁ、じきに霧が晴れます。お帰りなさい。」
そういうと、ふっとユニコーンはどこかに消えて、わたしはその場に取り残された。白い霧に包まれた湖畔は相変わらず奇麗だった。
それから、わたしはよく覚えていないけれど確かすっと霧が晴れて、いつもの森の様相となり、家路についように思う。あれから、また毎日のように林に行ったけれど、あのトンネルがある巨木もなく、またどうしても湖にも行くことができなかった。
 ユニコーンのことを数年も経つと思い出すこともなくなった。空想にふけりがちな子供だったわたしは、本の想像の世界をリアルな体験だと思っただけだと、自分に言い聞かせてもいた。それに、3年生の終わりごろにはもうあの林に行くこともなくなった。
あのうろの中に身体を丸めなくても、自分の部屋のベッドに座って本を開くだけで、あの温かく包まれたような安心した心境にいなれるようになっていたからだ。
それは第三の目が開眼したためだろうか、それともただ人間として成長したためだろうか。
その後、ユニコーンのことを刻銘に思い出したのは、10代の終わり、19歳のときのある夏の日のことだった。山手線の広告にあった展示会のお知らせのポスターが、あのときの記憶を甦らせた。
それは、東山魁夷氏の絵だった。
白馬が湖畔にいる。水色にエメラルドグリーンの配色はあのときの情景とよく似ていた。魁夷さんももしかしたら、あそこに行ったのだろうか、そう思いさえもした。
その夏実家帰ると雑木林に向かった。あの絵のような景色にまた出会えるかもしれない、しかし、雑木林は、住宅街に代わっていた。林の代わりに、煉瓦を敷き詰めたような道、オレンジ色の屋根、白い壁の戸建てが立ち並ぶ。あのうろのある木も無論湖畔もなかった。
あれは本当だったのだろうか。
ユニコーンが語ったように人には見えない光の渦でできた角が、わたしにもあるのだろうか?
第三の目というのは、本当に開いたのだろうか。記憶が時空を超えてよみがえるにつれて、わたしは第三の目について調べるようになった。
お釈迦様の額のほくろのようなものである白毫、観音様にもついている。
インドでの古い宗教では第三の目を開花させるために、お日様を凝視するという修行があったそうだ。
インドの神々には額には必ず目のようなものやなにがしかの印がある。ヴィシュヌ、ガネーシャ、ラクシュミー・・
西欧圏でも第三の目についての記述を見つけることは難しくなかった。デカルトは松果体を『魂の座』とよび第三の目として、精神と肉体がここで相互作用をするとした。エジプト文明においても松ぼっくりを松果体を表したものであり第3の目としてみなされていたようだ。
 ヨーガでは第6のチャクラとして知られ、直感や知性に関係しているとい考えられている。アージュニヤーとも呼ばれている。知覚する、知る、という意味だ。
 現代科学ではどうか。松果体はメラトニン分泌に関与していると考えられている。第3の目が科学的に研究されているかどうかは知らないままだが、物事を達観して、まるで天空から地を観るがごとく起こることを省察する能力がこの目の機能ならば脳領域で特定され始めていて、マインドフルな瞑想などの実践で活性化されるらしい。
鳥類などでは直接的に太陽光の受容体があり概日リズムに関わっているそうだが、朝日を目に取り込むことによって第3の目の覚醒が起こるとされているインド古来の宗教などと通じるものがある。朝日を取り込む生活をすることで、幸福物質たるセロトニンが分泌されるそうだがそのほかにも脳構造に変化をもたらすことがあるのかもしれない。
 第3の目が開かれたかどうかもそもそもそのようなものが存在するのかもまたユニコーンと出会ったことでさえも真偽を確かめる術がわたしにはない。
 しかし確かにわたしはあの遭遇以来学校がそれほどいやではなくなっていた。一月もたつ頃になると学校で居心地のよさを創出できるぐらい、上手なやり過ごし方が身に付いていた。同じ場所にいて同じようなことが繰り広げられているのだが、面白いととらえる着眼点がいくつもいくつも現れたのだ。
 半年も経つと、学校から帰ると駆け付けたあの安全基地である木のうろに潜り込まなくても済むようになった。家でも寛いだ気持ちになることができたのだ。
 それにわたしは今学校の教師になるべく大学で教職課程を履修している。
「学校をより良い場にできる」
そう語ったユニコーンの声がどこかに残っていたのかもしれない。
大学生のわたしは相変わらず、ファンタジーが好きだが、リアルな小説も読むようになっている。

(これは、創作です。次回をお楽しみに☆彡)

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