あなたの場所があるからさみしくなる 仏教用語における「無」と「空」から恋する切なさを考える

「まりかはカワイイ」
「そう?」
「うん、何だろう。バランスがいいんだよ。中身と外見の」
「どういうふうに?」
「フィーリングが合うってこと」

かわいいということばは、いくつになっても女をときめかせる。
何を言われるより、幸せになる。うっとりする。夢見心地になる。
かわいいには、女心をひっかける何かがあるのだろうか。
好きになるかもしれない殿方からなら、なおさらである。

さくらまりか、バツ2の50歳、非常に単純である。

日曜にフレンチからの池のほとりの散策で4時間半、おたがいの体温を手のひらに感じながらすごした焚き火の好きなJUNさんとまりかは、めでたくおつき合いすることになった。
はじめましての日に、おつき合いを決めるのは、いかがなものか。
そんな気持ちがなかったわけではないけれども、隣にいて心が喜ぶかどうかは、時間を重ねて変わるものではない。
一瞬の判断である。

足あとをつけあっても、私からいいねを送っても、マッチングまでに3週間を要したJUNさんは、会ってからは展開が早い。
毎日、逢いたいとLINEをもらい、私が休みを取れたといえば、すぐにプランを提示してみせる。
あっという間に、6日間の彼のお盆休み中、私の仕事が休める3日間を一緒にすごすことになった。

どうして人は、だれかを好きになるのだろう。
好きになることに、どんな意味があるのだろう。
好きになるということは、自分の心に新たにだれかの居場所をつくって、一喜一憂しなくてはならないことを意味するのに。

大学時代、仏教の授業で、とってもえらい教授が仏教用語の「無」と「空」の違いについて、講義をしてくださったことがある。
後ろに「席」をつけるとわかりやすい、と。
「無席」は、そもそも席がないこと。
「空席」は、席はあるけどいるべき人、あるべきものがないということ。
ほかの大事なところはみんな忘れちゃったけど、この無席と空席の話は、忘れたことがない。

恋愛はつまり、「空席」をつくりだすことにほかならない、と、まりかは思う。
だれかを好きになるたび、新しい席をその殿方のために用意する。
その席は、永久背番号のように、一代きり、その人のためだけで、ちがうだれかが満たすことはない。
恋が終わり、主をなくした席たちは、跡かたなく元恋人が持ち帰ってしまうこともあるが、たいていが屍として、心の墓場に打ち捨てられる。

それでも人は、新しい席を自分の中につくり続ける。
その人のための席は、その人にしか満たすことができない。
席をつくる前の「無席」の状態なら何ともなかったことが、「空席」となったとたん、殿方を恋しがり、不在を嘆き、心変わりを恨む。

だから、彼からのLINEの返事という席が埋まらなければやきもきするし、男友だちや同僚と飲みに行ってしまえば、私の知らない時間が「空席」を生み出す。
「席」が用意されたとたん、心には満たすことを欲する場所ができてしまうのだ。

数日前に、

「私にすぐ飽きちゃわないか心配なんだよ」
「じゃあ、まりかの虜にして」
「もうなっているでしょ?」
「不思議と心を持っていかれるんだ、まりかに」

と、それはそれは甘いやりとりがあったけれども、昨日の宴会でべろべろになって1日寝倒した彼からは、今日はろくに返事が来やしない。
「空席」の切なさが襲ってくる。

2週間前に彼とマッチした瞬間から、私の中にはJUNさんだけの「席」がつくられた。
席が満たされる幸せと、空いているさみしさ。
相反するふたつの気持ちを、その「席」は乗せている。

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