「当事者」であること(3)「当事者”になる”」こと

「私はジェンダーの研究をしています」(正確には「したいと思っています」)と言うことに伴う「恐れ」と「勇気」の存在。

バトラーの「恐れなき発言」に関する論考、そしてその論考をもとにしたなかまとの対話は、その存在をすこしだけはっきりさせてくれました。

「ジェンダーの当事者”になる”」ということ、そして「ジェンダーの当事者”である”」と言うことは、

なぜこんなにも(少なくとも私にとって)むずかしいのでしょうか。

それは、そう表明した瞬間に、「めんどくさいやつ」レッテルをはられたり、「ああ、そっち系のひとね」と言われたり、

そして、暴力的発言を生んだり。

ときには、私の「表明」によって「大切なひと」に危害が及んだり。


なんでこうなったんだろう・・・?、

が現時点の純粋な疑問。


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