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SSの白塗り:ヒトラーの協力者の歴史を塗り替えようとする試み

Esprit de corps Canadian Military Magazine 10/30/2020の記事の翻訳です。著者:By David Pugliese
写真:ユダヤ人の大量殺戮に直接関与した狂信的なナチス親衛隊上級大将フリッツ・フライターク(左)は、新たに編成された第14SSガリシア師団から敬礼を受ける。第14SSの支持者達は、師団員がナチスを支持したことはないと偽っている。

長年にわたり、一部のウクライナ系カナダ人はガリシア第14SS師団を断固として擁護してきた。実際には8万人が志願し、1万3千人が選抜されたのだが。他の擁護者達は、師団はウクライナの領土を守るためだけに戦ったのだと主張する。これも誤りである。

しかし、ナチスの弁明者達がガリシア第14SS師団を擁護するために使う最も一般的な方法は、1986年のカナダ戦犯調査委員会を引き合いに出すことである。

第14SSの支持者達は、デシェーヌ委員会は、ガリシア師団とその全メンバーが戦争犯罪に関与していないことを証明したと言う。「ガリシア師団の戦争犯罪の告発は、それが最初に提起された1950年においても、それが更新された1984年においても、この委員会においても、一度も立証されたことはない。更に、具体的な戦争犯罪への参加や知識の証拠がない以上、ガリシア師団の一員であるだけでは訴追を正当化するには不十分である。」

当時、委員会の報告書は白紙に戻されたと批判された。以来数十年、ガリシア第14SS師団の戦争犯罪に関する追加情報が明らかになるにつれ、その見方は更に強まった。

デシェーヌは、ガリシア師団が所属していたヴァッフェンSSがニュルンベルク裁判の国際軍事法廷によって犯罪組織と宣告されたことを無視したか、あるいは知らなかったようである。カナダは連合国の一員としてニュルンベルク裁判の戦犯訴追に参加し、カナダのウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング首相は実際に法廷を訪れ、裁判のいくつかに出席していたのだから、この省略は特に信じられないことである。

ガリシア親衛隊をざっと見ただけでも、ユダヤ人に対するナチスの破壊作戦と民間人殺害との関連が明らかになる。その司令官は狂信的なナチであり、ユダヤ人の大量殺戮に直接関与したフリッツ・フライターク親衛隊長だった。

ガリシア親衛隊の指揮官には、ウクライナ出身のハインリヒ・ヴィーンズ親衛隊上級大将がおり、彼はアインザッツグルッペンDの殺人部隊に所属し、個人的にユダヤ人の大量処刑に参加した。もう一人の師団将校フランツ・マガルSS親衛隊上級大将もユダヤ人殺しのベテランであった。
SSガリシアはSSゾンダー大隊ディルレヴァンガーと一緒に働いていた。この部隊には強姦魔、殺人者、精神異常者が含まれており、2つの組織はそれぞれの部隊間で将校を異動させることもあったと、東欧史の歴史家でスウェーデンのルンド大学歴史学部の准教授であるペール・アンダース・ルドリングは指摘している。

更に、SSガリシアには、1941年夏にユダヤ人の大量殺戮に参加したウクライナの協力組織ナハティガル大隊出身の将校や下士官もいたと、この師団を幅広く研究しているルドリングは付け加えた。

2003年、ポーランド政府のナチス戦争犯罪調査委員会は、フタ・ピエニアツカ村での女性と子供の虐殺は、ガリシア親衛隊第14師団に責任があると結論づけた。ポーランド国家記憶研究所は、目撃者の証言に基づき、第14師団のメンバーが村に入り、民間人を処刑し始めたと指摘した。

2005年、ウクライナ科学アカデミーの歴史研究所も同じ結論に達した。ポーランド政府の調査との主な違いは、殺害された民間人の数である、とルドリングは付け加えた。

ウクライナの調査では約500人が殺害されたと推定された。ポーランドの調査委員会は、殺害された人の数を700人から1,500人とした。

デシェーヌと彼の調査団はカナダに留まり、第14SSガリシアとナチスの手による残虐行為に苦しんだ人々にインタビューするためにヨーロッパを訪れることはなかった。イギリス政府の公文書をざっと調べただけでも、フタ・ピエニアッカでの虐殺について、ポーランドの地下組織がロンドンのポーランド亡命政府に送った報告書が明らかになっただろう。「ウクライナSS第14師団はフタ・ピエニアツカ村を三方から包囲した。「人々は教会に集められ、あるいは家の中で撃たれた。教会に集められた人々は、男も女も子供も、集団で外に連れ出され、子供たちは親の目の前で殺された。墓地で撃たれた男女もいれば、納屋に集められて撃たれた男女もいた。

歴史家によれば、第14SSガリシアは他にもポーランドの4つの村での残虐行為に関与しているという。

1944年の一部はスロバキアに駐屯し、パルチザンと戦い、スロバキア民族蜂起の鎮圧に参加した。師団はその後、1945年初めにスロベニアに移り、反ナチスのパルチザンと戦い続けた。これらの行動は、SSガリシア師団はウクライナの祖国を守ったに過ぎないというウクライナ系カナダ人コミュニティーの一部の主張を覆すものであった。パルチザンを狩り、民間人を殺し、村を焼き払った師団の活動は、彼らの行動がより大きなナチスの戦争マシンの一部であったことを明確に示している。

更に問題なのは、デシェーヌが自分の委員会のために作成した報告書を隠していたことである。"1941年から1943年にかけて、(ユダヤ人の)殺害行為に参加したナチが支援したウクライナの警察/民兵部隊に所属していた少なくとも何人かの人物は、(ガリシア)師団の隊列に入り込んでいただろう "と結論づけている。委員会はその報告書を秘密にし、情報公開法を通じて厳重に検閲されたコピーが公開されたのは数年後のことだった。

デシェーヌ判事は分断を解消し、ウクライナ系カナダ人コミュニティーをなだめるようカナダ政府から圧力を受けていたと主張し、デシェーヌ判事を擁護する人もいる。

しかし、ホロコーストの歴史家達が、SSガリシア師団に所属していた人々の残虐行為の詳細を発表するにつれて、デシェーヌ委員会が、アドルフ・ヒトラーとSS指導者ハインリヒ・ヒムラーのイデオロギーを支持し、それに奉仕していた軍部隊を白紙に戻しただけであることが、数十年にわたって、批評家達の間で明らかになってきた。

デシェーヌは2000年に亡くなった。しかし、彼の報告書は、ナチス政権の犯罪と、その残虐行為に協力した熱心な協力者達を白紙に戻し続けたい人々によって利用され続けている。

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