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今の大人がイマドキの若者に勝てないと思った理由

大人はすぐ自分より若い世代に対して「自分の若いときは…」と言う。私も若い頃は言われたし、最近は気づいたら自分も言っていることがある。

それは考えの浅さや知識や知恵の少なさを指して言うこともある。いつだって大人は自分たちの時代のほうが大人びていたし正しいと思っているのだ。

でも、その考えは改めなければならないと思う。今朝、高校生の息子の家庭科の教科書を見て再び驚愕した。再び、というのは以前にも国語や英語の教科書をパラッと見て同じ感動を覚えたことがあるからだ。

息子が使う家庭科の教科書には、お決まりの調理や裁縫の実習はおまけ程度についていて、むしろ全編を通して「生きるために必要なこと」の詳細が書かれていたのだ。

例えば私達が小学校高学年で習った生殖のきちんとした知識(特に私の時なんかはスライドが裏表のまま見せられて字が読めなかった。ひどい!)、子どもの身体と心の両方からの生育過程が写真付きで、障害児との関わり、1人で生きるかパートナーと生きるか、離婚と法律などなど、現代に即したいろいろな生き方を受容できる内容になっている。

それこそ私達の時代には、高校の家庭科なんて中学校の家庭科に毛が生えたようなものだったと記憶している。それなのにイマドキの高校の家庭科ときたら、多様な価値観を教えて経済設計の立て方から福祉も網羅し、まさに「現代社会の中で生きるための人生設計の作り方」の教科書なのだ。

私達の時代は、この教科書の内容のほとんどを成人してから自分の力で情報収集しなければならなかったし、自分の頭で考えなければならなかった。しかし、息子たちの時代では、すでにお膳に並べられて目の前に出されるのである。

これがいいか悪いかという議論ももちろんあるかもしれない。けれど、情報を得てからさらに自分の頭で考えて選択できるとすれば、やっぱり今の教科書のあり方のほうがいいと思う。生きていくうちに「こんな生き方もありか!」と発見する新鮮さは削がれるけれど、最初から選択肢が分かっていれば自分の進みたい道を深堀りするときに後悔が少ない気がする。

私達は知識や理論的な思考に関して、今の若者が大人になった時には勝てないなと思う。私達が苦労して手に入れたものを、彼らは最初から手に入れているからだ。ただし、苦労という経験や、手に入れるまでの紆余曲折だのといった感情を伴ったプロセスは、お膳立てしたものからは得ることができない。知識はあっても実感として腹に落とすにはやはり体験が必要だ。知識を振りかざすだけの大人にならないように、豊富な知識を頭の引き出しに入れつつ、たくさんの経験をしてほしいと思う。

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