見出し画像

良い写真ってなんだろう?~情報量編~

写真集をぱらぱらと眺めながら、頭を抱えていた。

先週会ったときに鈴木心さんが言っていたことが、どうも引っかかってモヤモヤする。「消費されない(時間を越えて愛される)写真には、情報がつまっている」と心さん。

なんとなく、わかる気はする。

1枚の中にぎゅぎゅぎゅっと色んな要素がつまった写真は、観るのに時間がかかる。

「ウォーリーを探せ」みたいにたくさんの人やモノが映っているストリートスナップなんかは、写り込んだ一人ひとりを観察していけば自然と時間は流れる。

反対に、葉っぱ一枚しか映っていないようなシンプルな写真は、一目みれば全容は把握できる。


「なにが映っているかを把握する時間」を鑑賞時間だととらえるならば、ウォーリー的写真には5分かかって、葉っぱ写真には1秒しかかからないかもしれない。

それはわかる。

だけどなんだか腑に落ちなかった。

たしかに複雑な写真は見るのに時間がかかるけれど、だからと言って必ずしも心に残るわけじゃない。

葉っぱ1枚しか映っていないのに、なぜか頭から離れなくて、時間をおいて何度も見返したくなる写真もある。

「目が写真を見つめている時間」と、「心が写真のことを考えている時間」が比例しないことが、納得いかなかったのだ。


・・・


次に会ったときに、心さんに質問してみた。すこし考えて、心さんはこう教えてくれた。


「『情報量』の中には、『想像力』も含むんだよ」と。


想像力も、情報の一部・・・!視界をおおっていた霧が、すっと晴れた気がした。

形として映っているものだけが「情報」ではないのだ。

たとえば1枚の写真を見たときに、

「ああ、なぜか懐かしい気持ちになる。子ども時代を思い出す。この写真を撮った人も、同じような気持ちで撮ったんだろうか?この人が言いたかったことは、どんなことなんだろうか?もしかして・・・?」

なんて深読みが始まったとする。その場合、このカギカッコの中のこともすべて「情報」なのだ。

読み手に色んなことを深読みさせたり、長い間考えつづけさせたりする力こそが「情報量」。そう考えると、今までのモヤモヤはすっと消えた。


・・・


写真の情報量を例えるならば、長編小説と詩のような関係かもしれない。

「ウォーリー的写真」が長編小説のようなものだとしたら、「葉っぱ1枚写真」は詩だと言える。

長くても何も残らない小説だってあるし、たった数行でも、一生心に残り続ける詩だってある。谷川俊太郎の「あなたはそこに」なんて、1分もあれば読めるのに、初めて読んだ瞬間からずっと私の心をえぐり続けている。

そう考えたとき、今の私の写真をたとえるならば、長編小説でも詩でもなくって、Twitterのつぶやきみたいな写真だなぁと思った。

深い意図もメッセージもなく、そのときどきの気分だけで発信する写真。「いいね」がもらえても、次の瞬間にはスクロールで流されてゆく写真。

一概にそれが悪いわけでもないのだろう。ツイート的写真だって、一つの立派な写真のあり方に違いない。


でも、小説のようなメッセージや、詩のような衝動を残せる写真だって撮ってみたい。せっかく写真という手段を好きになったんだもの。「いいね」よりもさらに深く、「あの一枚がどうしても忘れられないんだ」くらいのインパクトを残せるような写真。撮ってみたい。

道のりは長くて険しいけれど、一歩ずつ、のぼってゆきます。


サポートいただけたら、旅に出たときのごはん代にさせていただきます。旅のあいだの栄養状態が、ちょっと良くなります。