ノートルダムの火事に思うこと
朝、母からのLINEで二度寝から目が覚めた。
「ノートルダムが。ショック」
え?なんのこと?胸騒ぎをおさえながら検索した。
「うそやん」
もう一度目を閉じたら、夢になればいいのに。でも残念ながらそうはならない。
その後もずっと、一日中どこか上の空で過ごしていた。悲しい。ひどく悲しい。だけど、なんでこんなにも悲しいのか、自分でもわからなかった。
たった一度しか行ったことがない場所だし、なにかそこで特別な経験をしたわけでもない。ノートルダム大聖堂にたいして大きな顔をして誇れるような思い出なんて、1つもない。なのになんだろう、この苦しい気持ちは。
諸行無常、形あるものはみな消えゆく。永遠なんてない。そんなこと、頭ではわかっている。だけど頭と心はやっぱり別で、わかってたって悲しいものは悲しい。
・・・
話はすこし飛ぶ。
炎につつまれたノートルダムの写真を見つめながら、思い出したのは、大学の授業である教授に言われたことだった。たしか、中東文化についての授業だったと思う。
バーミヤンの石仏が破壊されたとき、日本の人々は石仏のことばかりを嘆き、悔やんだ。そのことを教授は、「グロテスクだ」と表現した。
石仏が破壊された場所のすぐ近くで、生身の人間が次々と命を落としていた。なのにみんな、石仏のことしかつぶやかない。遺産は大事だ。だけれど人の命は大事じゃないのか?
ざっくりまとめると、こういう話だった。
そんなこと考えもしたことがなかった私にとって、このときの話はかなりショッキングでずっと頭に残っている。
・・・
今の自分に当てはめるとどうだろうか。
ノートルダムのことばかり悲しむ自分は、グロテスクなのだろうか。そうかもしれない。この日本でも、苦しんでいる人はたくさんいるのに。そこに目を向けず、遠く離れたヨーロッパの有名寺院に募金しようするのは愚かな行為だろうか。
わからない。
だけどそうやって悩んで結局誰のことも気にかけないよりは、まずは自分の心に留まったことからでも何か知ったり動いたりするほうがまだマシなはずだ。きっと。
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