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石牟礼道子という菩薩~ふたつの異なる魂がひとつになる時

魚座というサインは実体が掴みにくいです。
魚座を表すキーワード、混沌、慈愛、自我の境界が曖昧・・・
論理的にはよくわかる。


しかし、「混沌ね、あぁ、よくわかるよ!」とはなりにくいですよね。
今、私、まさに混沌だわ・・・と実感する瞬間はそうそうありません。


この掴み切れない魚座の本質を体感するなら、石牟礼道子さんの作品を読まれることをお勧めします。代表作「苦海浄土」における、その表現性と感受性は、もはや霊感と呼べる域に達しています。


他者の感情と魂が乗り移り、その代弁者となる。筆者の魚座的混沌性と深い共振性により、自然発生的にそうなってしまうのです。


この作品を、文明人としてのスタンダードな立ち位置から評するならば、「有機水銀による大量中毒事件、それらに纏わる被害者の苦しみとその後の訴訟問題を扱うルポルタージュ」と言えます。


しかし、本質的には全くそうではありません。これは完全なる芸術作品であり、海と大地と空と命への純粋な賛歌です。


石牟礼道子の後半人生を共に歩んだ渡辺京二氏によると「苦海浄土における患者さんたちの言葉は、道子自身の創造であった」そうです。私自身も、この事実を知った時、少なからぬ衝撃を受けました。


(以下、転載)

まず意図的な品切れを疑われた『苦海浄土』だが、1972年には講談社から文庫化されている。しかし、巻末に寄せられた渡辺京二の解説が物議を醸した。

《私のたしかめたところでは、石牟礼氏はこの作品を書くために、患者の家にしげしげと通うことなどしていない。これが聞き書だと信じこんでいる人にはおどろくべきことかも知れないが、彼女は一度か二度しかそれぞれの家を訪ねなかったそうである。「そんなに行けるものじゃありません」と彼女はいう。むろん、ノートとかテープコーダーなぞは持って行くわけがない。》

 実は渡辺自身にとってもその事実はおどろきだったという。

《瞬間的にひらめいた疑惑は私をほとんど驚愕させた。「じゃあ、あなたは『苦海浄土』でも……」。すると彼女はいたずらを見つけられた女の子みたいな顔になった。しかし、すぐこう言った。「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」。》



そうです。有機水銀に侵された患者たち、特に、初期劇症型と呼ばれる患者たちの大半は、すでに物言えぬ菩薩であったのです。それをあのようなリアリティーと胸に迫るような言葉でもって代弁できたのは、道子の魚座的混沌性ゆえなのだと思うのです。


その「創造」が単なる筆者の創作物ではなく、紛れもなく患者の言葉を正確に読み取り、その魂を言語化していたーーそのような揺るぎない確信を、私が感じるのには理由があります。


私の祖母は天草生まれ、やがて不知火海を隔てた対岸の水俣へと嫁ぎました。そして生まれた私の母は18歳まで水俣で育ちました。母と姉弟たちも、同郷の石牟礼道子さんとは面識がありました。その為、私自身も道子さんの人と成りを少しばかり知る機会に恵まれていました。



実は、私の祖父は水俣病でした。そのことを知らされたのは、私が大人になってからです。それまでずっと、祖父は脳卒中だと聞かされていました。初期劇症型のような激しい症状はなく、相当晩年になるまで言葉を話すことができました。そして、私が中学生になる頃には、祖父はほぼ寝たきりになりました。


さらに驚いたのは、祖父が加害企業チッソの幹部であったという事実です。祖父は加害者であり被害者だったのです。水俣病への強い関心と憤りと言い得ぬ苦しみを抱いてきた私が、その時感じた衝撃は相当なものでした。なんという因果でしょう。


それから、私は水俣病患者さんと交友を深めることになります。彼ら、彼女らの心の美しさ、それはもう圧倒されるものがあります。公害の原因である近代化から置き去りにされ、魂の美しさだけを残した菩薩様のような一面を持っているのです。


また、水俣や天草という日本の原風景が残る大変に美しい場所は、私の魂の故郷そのものです。あの美しき不知火海でこのような悲劇が起こったことは、私自身の物語でもあったのです。


ゆえに、石牟礼道子の代弁は創作物ではない、想像で描かれたものでもないと感じるのです。あれは、確かに「患者たちの魂を代弁したもの」
そう感じざるを得ません。


魚座的慈愛とは、肉体の隔たりは勿論、物質世界と霊的世界の境目さえも易々と超えてゆくものです。そして、この社会において弱者と呼ばれる立場に置かれた時も、私たちを決して見捨てることのない菩薩の愛です。それは最後の砦です。


どんな状況になったとしても、この世に確かにある「救い」なのです。この世界に魚座的混沌、魚座的慈愛がなければ、決して救われない存在が、いつも確かにいるのです。


その慈愛はすべての人の内側にあります。魚座サインを持つ方だけが知り得る仏の世界では決してありません。この世は苦海でありながら浄土でもある。それを初めから知っているのが、魚座なのかもしれません。








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