石牟礼道子という菩薩~ふたつの異なる魂がひとつになる時Ⅱ

前回からの続きです。
石牟礼道子と渡辺京二の出会い、そして、二人の絆の深さが如何なるものであったのかを描いた「魂の邂逅」を読んでいて、私は驚きました。



公表されている渡辺氏の誕生日は8月1日なのですが、本当は9月1日であるというのです。石牟礼道子は太陽魚座生まれ、渡辺京二は太陽乙女座生まれ、反転の関係性ではないか!



星座サインの反転関係というものは、一般的にはあまり重要視されていないように思うのですが、実際は「ふたつでひとつ」なのです。全ての星座サインは成熟すると「底が抜けて反転してしまう」わけです。いや、そうならないと完成しないわけです。



自他の区別が曖昧で、他者の苦しみを我がこととして感じ取ってしまう道子は、人生で何度も自殺未遂を起こしています。恐らくは最期まで「現世に耐えられない、死にたい」という想いから、完全に逃れることができなかったのではないかと推測します。



一方、京二は自他の区別が明確です。道子は氏のことを「邪悪な性質を持つ」と表現しています。これは勿論、深い信頼関係ありきの発言です。最も弱き者、貧しき者と共鳴して、その在り方や存在そのものと混在してしまう自我を持つ道子にとって、京二の論理的で現実的な思考が、ある意味「邪悪」に感じられたのでしょう。



京二は道子を「聖人・聖女」と言い、京二は自身を「俗人」と言うのです。晩年、京二は「あの人は妖精のような人ですよ。幻を見る人。現実を透過して現実のかなたにあるものを見る人。芸術家です。」と発言しています。
動画があります。
https://youtu.be/UA35VnzZ-3Y
(40分30秒あたりから)



お互いがお互いを、最も遠く隔たりのある人間だと感じると同時に、相手の本質(魂・太陽)に対して深い共鳴と尊敬の念を感じていたのです。石牟礼道子が自らその生命を断つことなく、最後まで芸術家として、「幻を見る人」として生き切ることができたのは、渡辺氏の存在があってこそなのでしょう。そう思われてなりません。



私は乙女座、私は魚座、私はさそり座ーーという著しく個別化された認識は、ある意味危険なものになりえます。サインはひとつ前のサインをアンチテーゼにして、留まることなく成長・飛躍してゆくことで、宇宙も人類も進化し続ける仕組みとなっているからです。



牡羊座は天秤座を内包してこそバランスが図られ、その粗削りでフレッシュなエネルギーが社会の中で生きてきます。牡牛座は蠍座を内包してようやく利他と全体性を知ります。双子座は射手座を内包してこそ、その優れた知性が本質に至ります。蟹座は山羊座を内包している故に、危うい情緒的破綻を回避し、現実で答えを出せます。獅子座は水瓶座を内包することで、いよいよ実質的な才覚を得ます。(残りの星座も同じく、逆もまた真なりです)



太陽星座に限らず、反転の関係性であるパートナーシップは、得るものが多い関係です。男女でこの関係性を持つ場合、いつも競り合っているような、どこか戦友的雰囲気になりがちです。お互いの足りないところ、過不足のある場所を、否応なしに見せ合う鏡の関係だからです。



一見、それは、甘くてラブラブな関係とは違います。しかし、表面上の違いを超えて共振した時、魂の繋がりにまで至りやすく、大変に実りの多い関係性です。そして、最後には、他の人では決して代わりになれない、かけがえのない存在に昇華します。お互いが唯一無二の最高の相手となるのです。



違いを超えてみたら、ふたつの魂は同じものを目指していたことがわかり、ふたつの魂がひとつになることができるからです。反転の関係とは正反対であり、しかし、その本質(魂)は同質のものなのです。

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