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あの日の嘘

はじめて恋をした。17年目、春休み。
僕は一目惚れをした。運命の人に出逢った瞬間、
体中に電気が走ったなんて耳にするけど、そんな軽くなかった。
全身が熱く、熱く、鼓動がどんな音よりも大きくなった。
この小さな図書館はより静かで、鼓動が溢れてしまわないかオロオロした。
呼吸の仕方はどうだった?目の焦点はどこに合わせればいい?
パニックだ。頭がぐるぐるぐるぐる。本を読んでるふりをしないと。
いや、素人の僕の演技など、見破られていたかもしれないな。

落ち着きは時間とともにやってきた。
ゆっくり、ゆっくりと。

これが恋なんだ、不思議なことに直感的に感じた。
恋をすることは人間にとって本能に等しいものなんだろう。
手に持つ文庫本の内容はもうすっかり忘れた。
恋。愛。好意。付き合う。恋愛。手を繋ぐ。デート。
僕の意識はもうピンク一色だった。

桜が咲いた。それがどうした?気にも止まらなかった。
もっともっと美しい人を見つけてしまったから。
毎日通った。図書館。そこしか僕とあの人の接点はないから。
残念ながらあの人は、土曜日の午前中にしか来ないみたいだ。
落胆と、安堵と、不安と、感興と。
話したこともない、遠くから見ているだけのあの人のことで
感情はアメーバのごとく形を変え、色を変え、僕をゆさぶる。
今僕はどんな顔をしているんだろう。鏡を見るのが怖いな。

始まりは突然、向こうからやってきた。
「いつも同じ本を読んでいるのね、ぼく」

秀麗な声色だった。いままで聞いたどんな音よりも。
まるで岩のごとく、一瞬で全身が固まった。
手に持つ文庫本はもう何周も読み返していた。
汗。焦り。声。会話。喉。かすれる。
耳元で「ふふっ」と茶目っ気な微笑が聞こえた。

もうそろそろ衣替えの季節だろうか。
そんな興味のないことを考えながら待つ正午30分前。
駅前の時計台の下で、待つことがこんなの楽しいとは。
大人なあの人はどんな格好で来るのだろう。
妄想は脳のキャパシティーを軽く凌駕する。
あの人と会話をする仲になった。隣席する程度には。
あの人の表情はとても豊かで、拙い話術も幾分救われる。
僕はきっと、文字通り必死の形相だっただろう。

爽やかな風とともにやってきた。
「おまたせ」

図書館では見たこともない姿のあの人。
まだまだ僕は子供なのだと痛感する。
手から文庫本がするりと落ちていった。
綺麗。女優。白い。細い。いい匂い。
かがみ込みながら、息が頬をついた。

鬼灯が花をその身に宿すころ。
子供は子供なりに考えてみたのだけれど。
結局は伝える以外に、選択肢はないのだと知った。
この問題を解かなければよかったと心底悔やんだ。
急に崖っぷちに立たされた面持ちだ。
帰路はない。飛び越えるか、否か。
初めて出逢った日を超えるぐらいのパニック。
息も絶え絶えで、1時間もかけて伝えた。

返答はたった一言。
「私もよ」

なによりも欲しかった答え。
感情が処理しきれない。
お守りの文庫本を潰れるくらい握った。
成功。彼女。初。嬉しい。訳が分からない。
震える頬を両手で撫でながら、あの人は自嘲した。

花はいつか枯れる。
今日がその日だったというだけのこと。
探す面影。名前。ぬくもり。
何一つ、僕は知らなかったんだ。
恋だけを見ていて、あの人を知れていなかった。
撫でられた頬を上書きするように伝う涙。
絶望の更に底へ落とされたと錯覚する。
図書館で、一人。

持っていた文庫本。
タイトルは
「鬼灯が魅せた夢」


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