見出し画像

キライなまんじゅうを食べてくれてありがとう!

他人を動かす理想的な方法は、基本的には「まんじゅう怖い」だとおもう。有名な落語なのでしっている人がほどんどだろうが、簡単に筋を書いておく。

あるところに生意気な男がいて「自分は世の中には怖いものなどない」と言い張る。しかし、なおも問い詰めていくとじつは怖いものが一つあるのだと白状するのである。それは「まんじゅう」なのだと。

周りオトコたちは、「あいつは生意気だからまんじゅう攻めにしてやろう」ということで、金を出し合って買ったまんじゅうを、男の部屋に投げ込んでいく。

すると男は「怖い怖い」といいながら全部食べてしまう。だまだされたと気づいた男たちは「お前が本当に怖いものはなんだ?」と問い詰めるとオトコは

このへんで、濃いお茶が一杯こわい

というオチである。

濃いお茶が「こわい」というのは、もちろん濃いお茶を「ほしい」ということだ。ただし、「ほしい」と言われて「じゃあやろう」という関係が成り立つのは、おたがいの利害が一致している場合にかぎられる。

やりたくないことをやらせたいとおもったら、ぎゃくのことを言わなければならない。

「まんじゅう攻めにしてやる」といきごんでいる言っている男たちは、自分たちのやりたいことをやっているように見えて、実は、相手のやってほしいことを「自分たちのやりたいことだ」という風にかんちがいさせられている。

かしこい親は、子どもに勉強させたいばあいにおなじやりかたを使う。また、為政者が一般大衆に「戦争をやりたい」と思わせたい場合にもおなじやり方が使われる。定番的なやり口だ。

こどもに「ゲームしないで勉強しなさい」と命令すると、こどものアタマの中には「勉強=いやなこと」、「ゲーム=好きなこと」という図式が刷り込まれてしまう。いやなことはやりたくないので、勉強を避けて、ゲームをやるようになってしまう。

一方、「宿題なんかしなくていいからあそべ」というと、最初は喜んで遊ぶだろうが、宿題をしないでいると先生に怒られる。

「宿題くらいはやらないとまずいのではないか」と子どもは思い始める。それでも「宿題なんかやらなくていいから一緒に遊ぼう」と誘い続けると、こどものアタマの中では「宿題=やりたいこと」、「ゲーム=やりたくないこと」という図式が刷り込まれて、親の目を盗んで勉強するようになる。

ちなみに、ぼくも弟もこのパターンで勉強している。

ウチの父親からは、「勉強なんかしなくていい」といってやたらとキャッチボールをやらされた。自分の子どもを、プロ野球選手まではいかなくとも、高校野球で活躍できるくらいの選手にはならせたかったみたいなのだ。

しかし、ぼくにも弟にもそんな才能はないし、キャッチボールなんかやるとバキバキに突き指するので、いやだった。いまでもあのときに影響が残っており、自由に動かない指がある。迷惑なはなしである。

父は、ぼくのみるかぎり過去50年間一冊の本も読んだことはない。ひたすらテレビを見て、競輪や競艇に入れあげている。「あんな大人にはなりたくない」と願ったこどもたちは、彼の目を盗んで勉強するようになった。

これは親がバカだったからこうなったんだけど、意図的にそういう方向に誘導することもできる。

戦争も同じだ。当たり前の話なのだが、ウクライナ戦争が長引けば長引くほど得をするのはだれがみてもアメリカである。自国の兵を失うことなくロシアを弱体化できるし、兵器産業は大儲けだ。

しかしアメリカは「まんじゅう(戦争)を食べたい」とは言わない。「まんじゅうは嫌いなんだけど、民主主義と平和を守るためにいやいや食べるのだ」と言う。

そこで一般大衆は、

キライなまんじゅうをたべてくれてありがとう!

となって、まんじゅう攻めにしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?