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「キックのある怪談」に癒される

よく映画を評するときに

B級映画

という言い方がありますよね。だれが最初に言い出したのかわからないけど、「A級、B級」ということば自体は映画に限らずいろんな分野で昔から使われているので、とくにだれが発明したというものでもないのかもしれない。しかし、

Z級映画

という言い方もあり、これは映画批評特有の言い回しだ。

Z級映画とは何か

「Z」は、XYZの「Z」ということで、つまり「この後はない」という意味がこもっている。これ以上ひどくなると映画とすら呼べないという最後の最後のランクに位置している映画がZ級映画と呼ばれる。

そして、この言い回しを最初に使ったのが誰なのかははっきりしており、作家の平山夢明さんだ。かれが作家になる前の評論家時代に使い始めたのだが、「映画評論家」といってもまともな評論家はZ級映画など見ない。

そもそも昭和の日本にはZ級映画というものは存在しなかった。

Z級が出回るようになった発端はセルビデオやレンタルビデオの普及にある。昭和の後期にビデオが普及して以来、本来なら未公開で終わるような箸にも棒にも掛からない映画が大量に輸入され、ビデオ化されるようになった。

ぼくもそのころにZ級映画の洗礼を受けたクチなのだが、当時、その手のビデオの評論でて糊口をしのいでいたのが、若き日の平山夢明氏で、当時はまだ作家ではなく「デルモンテ平山」となのる無名の評論家だった。

デルモンテ平山は別格だった

実は当時、ぼくはこのデルモンテ平山氏からかなりの影響を受けていたんだけど、まさかのちに怪談の世界で再び遭遇することになるとは思いもよらなかった。

デルモンテ平山は、AV雑誌(オーディオビジュアル雑誌)の隅っこで、ビデオ発売のみの無名映画の寸評を書いておられたのだが、そういう「バイトの評論家」はほかにもたくさんいた。

しかし彼だけは文章がちがっており、他の寸評から浮いて見えていたので、大学時代のぼくは「デルモンテ平山」だけは別格扱いして、襟を正して読んでいた。

このデルモンテ平山のおかげでわざわざ秋葉原まで上京したこともあるし、いろんなことがあったのだが、最近まで「あのデルモンテ平山」と、「怪談作家の平山夢明」が同一人物だとは気づいていなかった。

気づいてからものすごーくおどろいたのだが、そのあたりのつもる話を書いていると長くなるので、、いずれ「アートフィルムにまつわる話」として、別記事で書きたいと思う。

また、「目の前にいるのにずっと気づかなかった有名人」の話としては、

関根勤さんとポカリスエットCMと森高千里さんの話

などが思い起こされるのだが、ここでわき道にそれると「キックのある話の」にたどりつくころには1万字を越えてしまうので、これも断念してキックのある話に入ろう

キックのある話

さて、「パンチの効いた話」とか「パンチの効いた味」とか「パンチの効いた曲」などという表現はよく聞く。パンチがあるとは、「インパクトが強い」くらいの意味である。

それにくらべて実話怪談の世界には

キックがある話

とか

この話にはキックがある

という独特の言い回しというか、隠語みたいなものがあるんだけど、他の分野で使われているのは聞いたことがない。

キックとパンチの違い

では、キックがあるのとパンチがあるのとどういう風に違うのかというとなかなか表現がむずかしいのだが、あくまでぼくなりの理解を記しておくと「キックがある話」とは

えぐいオチのある話

ということになる。えぐいというと、グロいとかむごいとかそういう風にとられると困るのであとで実例を挙げる予定なんだけど、キック = グロい話ではなくて、

死角から飛んでくるパンチ

みたいなものだといえるだろう。パンチのあるものは、真正面からわかりやすいインパクトが来るのだが、キックはそうではない。およそ想像力で思いつくことは不可能というか、実話でしかありえないような斜め上の展開をするのがキックのある話である。

あまりにも風変わりなモノ

といってもいい。

キックも平山氏の造語だった

念のため「キックのある話」をネット検索して僕の理解でいいかどうかを確かめようと思ったんだけどネットにはほとんど載っていなくて、3件しかヒットしなかった。

その1つは怪談とは無関係で、残り二つは平山夢明さんの記事であり、そのうちの1つを読んでいると、どうやら「キック」も「Z級」と同じく、平山さんが発明したものらしいのだ。インタビューに答えて

「キックのある話」とぼくは呼ぶんですが、キックのある話を聞くとぼくはどこか癒されます

と言っている。そして、何を隠そうぼくもキックのある話を聞くと癒されるタイプなので共感するし、そしてそういう人は多いのだ。

では、キックとはどういうものか?

さて、ではキックのある話とはどういうものなのか実例を挙げてみよう。じつは今日はこの話を書きたくて書いており、すばらしいキックがちりばめられている本を読んだので、紹介したくなった。

出典は、デルモンテ平山編著『新「超」怖い話 Q』(1999)である。この本は、平山氏が「デルモンテ時代」の絶頂期だった世紀末のころに収集した実話怪談が収められており、全編が「キックの応酬」なのだが、発売元の勁文社という出版社はつぶれており、この本も絶版でなかなか手に入らないので

ぜひ買ってお読みください

というわけにもいかない。また

図書館には絶対に置いてない

ので、気軽に読めとは言えない。ぼくもようやく手に入ったので一気読みしたのだが、書きたくてウズウズする話がいくつもある。

***

たとえば、ビルの屋上にお稲荷さんを祀ったりしているでしょう。あれは元の土地にあった神社をつぶして、ビルを建てて屋上に祀っているわけだが、実は、あんな空中でまつっても効力はなくて、本当にまつりたいなら、ビルの中にパイプを通してそのなかに土を詰め、直接地面とつなげなければならず、某デパートの屋上の神社はそうなっているそうだ。

そういう話がいろいろあるのだが、厳選して2つだけ、とくにキックのある話を紹介しよう。1つは、「死刑囚の手」という話。

死刑囚の手

世の中にはグロテスクな品物をコレクションしないでいられない奇特な人がいる。仮にAさんとしておくと、このAさんは資産家の坊ちゃんで50になるまで仕事もしていない。そして、奇形児のホルマリン漬けだの、人の髪のついた頭皮などの珍奇なコレクションに囲まれて暮らしていたのだそうだ。

それであるときおもしろいものが手に入ったので見に来いといわれて友人が言ってみると、それは

板にボルトで固定されている腕の骨

だったそうだ。ネットで買ったといい、5人の少女を絞殺して死刑になった30代の男の手の骨だというのである。

片手で30万円、両手で50万円だったのだが、どうせガセだろうから片手で十分だと思って片手だけ買ったのだそうだ。

なお、腕には手錠が付属しており、

手錠で固定しておくことをお勧めします

と書かれていたので面白いジョークだなと思って近くのダクトにその腕の骨を手錠で固定していたのだそうである。

ところが、ある日、愛犬のダックスフントがこの骨のそばで冷たくなっており、「首の骨がおられていた」という。

その後も、骨には手錠をしたままだったんだけど、背後の壁には無数のひっかき傷がついており、そしてあるとき手錠が抜けて、自分の足元のベッドにその骨があった。

ベッドが高かったので登れなくて命拾いしたのだそうだ。そこで、その腕を板にボルトで固定したのだという。その状態で友人は見せられたわけだが、

「今でもあのとき、両腕をいっぺんに買ってたらと思うよ。惜しいことをした」彼はそう悲しそうな顔をしたという。

と、まあこんな話である。真偽のほどはおいておくとして、キックがあるのは、最後の「両腕をいっぺんに買っておけばよかった」というところだ。

愛犬が殺されたのだから骨を買ったことを後悔したり、怖くなって捨てたり、お寺に納めてお炊きあげしてもらうのが、怪談のふつうの流れである。

ところが、「両腕を買っておくべきだった」と悲しそうにしているあたりが、この男は狂っており、ある意味、腕の持ち主だった死刑囚の狂気を越えている。

愛犬をひねり殺す腕より、この収集家のほうが怖いという、一種の爽快感のある話であり、これがキックだ。

イヤリング

もう一つだけ簡単に。

おなじく奇特な収集家の話で、「妊娠後数週間で堕胎された胎児で作ったぶよぶよのイヤリング」が手に入ったのだそうである。

うわさによれば中国では一人っ子政策の影響で、そういうものがつくられていたのだそうだが、5センチほどのイヤリングの中には、やがてまぶたになるはずの黒い点や指みたいなものも見えるのだそうだ。

その後、収集家は、数々の怪現象に見舞われ、自分の家族も命を落としかけるのだがそれでも懲りずに「これを乗り切れば自分のものになる」と思ってがんばりつづけたけど、ついに根負けして、近所のお寺にもっていったけど引き取りを拒否される。そこで困ってある医大の研究室に持ち込んだのである。そうすると

助手は嬉しそうにそれを受け取ると、「あなたは商社の方ですか」と尋ねたという。「いいえ」と彼が答えると、「個人でこれを持ち込んだのはあなたが初めてですね」と相手は言い(中略)「これで二十個ほどになります。もうウチではいらないですね」そう助手は笑ったという。

途中の怪現象の数々をはしょってしまったので伝わらないかもしれないけど、困りに困って医大に持っていったところが、すでにダンボールに20個保管されていたというのが「キック」なのである。

キックの爽快感

さて、あなたは以上の話を気持ち悪く感じるだけだろうか。それとも、キックの爽快感は伝わっただろうか?

世間にはいろいろとウラがあるのは確かだし、陰惨なものもたくさんある。しかし、そのウラの怖さに屈しているだけでは陳腐な話で、ウラをものともしないオモテもあるというあたりがキックの爽快感だと思う。

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