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モバイル化で解決できる問題はあまりに多い

いまどきテレビを見ない人はかなりいると思うんだけど、ぼくもほとんど見ない人で、半年以上は見ていない。

そんなぼくでもテレビをむりやり見なければならない日はある。たとえば今日は飛行機移動の日だったので、空港のロビーでみることになった。

仕方がないので見ていると、地方の中学校に「演劇の人」がたずねていって、演劇を教えるような番組をやっていた。まあそれはそれでいいんだけど、でも本音としては・・

田舎の中学校などであまり演劇の魅力を熱く語らないでほしいなあ・・

などと思いつつ見ていた。なぜなら、これをきっかけに演劇に目覚めてしまう生徒が現れれば、その子の将来は

いばらの道

だからだ。そもそも演劇などというものはどう転んでも儲からないようにできている。たしか数年前にホームレスの女性が殺害された事件があったけど、あの人もたしか元演劇の人だったはずだ。

演劇をやったからといってホームレスになるとは限らないけど、20代にプログラミングをやっていたのと演劇をやっていたのとでは後々ずいぶん違うと思う。

そもそも儲からないもの

さて、ここで

そもそも儲からないもの

というところからいろいろ連想してみたのだが、リスクばかりでもうけが出ないものは世の中にいろいろあって、たとえば出版だ。

とりわけ紙の本は、一部のベストセラーを除けば演劇なみに無謀な企てだと思える。

こうしてブログを書いているかぎり、そこには「書く人」と「読む人」しかおらず、人件費はゼロに近いけど、紙の本はパルプの製造から始まり、印刷やら、取次やらいろいろなところを経由して、書店に並べて売るところまで考えれば人件費は膨大にかかる。そのわりに単価は限られていて、キンドルと変わらない。

いまどき紙媒体で採算をとろうという発想に無理があるとおもえるけど、それでも無くならないのは、本の送り手にも受け手にも

本は紙ではなくてはならない

という固定観念があるからだろう。なにをかくそうぼくも今日の今日までそのひとりだったのだが、演劇の無謀さと比べてみた時に、あらためて「紙の無謀さ」を感じてしまった。

かつて堀江貴文さんが

いまどき紙の本なんか読む人います?

と言ってたことがある。また、高城剛さんも

紙の本は要らないと思います

的なことを言っているのを見たことがあり、極端なことを言う人たちだと漠然と思っていたんだけど、なんだか彼らの言うことのほうが道理にかなっていると突如と思えてきた。むしろ、僕の目のほうが固定観念で曇っているのではないかと。なんなら「これこそ老害?」とすら思う。

移住生活でわかること

さて、ここからさらに話が飛躍するのだが、上記の2人に共通しているのは、定住していないことで、堀江さんはホテル暮らしだと聞いているし、高城さんは世界を飛び回っている。

ぼくは彼らにくらべればずいぶん腰の重い人間なんだけど、それでも最近は親が認知症なので、しかたなく二拠点生活を送っている。そうなってみてよくわかるのだが、紙の本はデメリットのカタマリだ。

もちろん、いまでも、本を手にもって読みたい気持ちは強いし、紙の本にこだわりたい人の気持ちはよく分かるんだけど、それにしてもデメリットがおおい。

そして、若い世代ほど、これに共感できる人は増えていくだろうということも想像がつく。なぜなら世の中全体がモバイル化しつつあるからだ。

いま、ほとんどのことはモバイル機器でかたがつくし、今後、仮想空間で過ごす時間が増えていけば、リアルで世界のどこにいようと仮想環境で同じオフィスに出社できるようになるだろう。

さらに仮想技術が発達していけば、いずれは仮想空間の中で

仮想の紙の本を、仮想の書店に買いに行き、それを仮想の書斎に並べて、仮想のページをめくって読む

というようなことにならないとも限らないわけで、そうなった場合、すべてはデジタルデータでしかない。

今日は長くなったのでここまでにするけど、この想像をさらに一歩進めてみれば、そういう世界においては「リアルの定住」という概念自体が意味をなさなくなってくるだろうし、そういう世界で解決する問題は、あまりに多いのだ。

モバイル化すれば解決することは多い

たとえば、二拠点で暮らしていると「故郷への思い」とか「お国自慢」のようなものが幻想だというのがわかってくる。

いま仮に故郷の伊方原発で放射能漏れ事故が起こったとしよう。そうなってもぼくは他のどこにでも移住するし、それにほとんど苦痛は感じないし、望郷の思いで苦しむこともない。

そのあたり一帯を封鎖してさっさと処理してほしい、と思うだけだ。

こういう風にいうと「故郷というものをわかってない」と言われそうだが、以前はそんなことはなかった。故郷は良いもので、取り換えのきかないものだという感覚を持っていたので、そう感じる気持ちはわかるつもりだ。ただし、その思いは幻想だ、ということも今ではよくわかる。

領土問題も解決する

さらにいえば、二か国以上に暮らしたことにある人にとっては、極論、

どこの国で暮らすのも大して変わらない

ということもわかる。今後、そういう人たちが増えていけば、故郷を防衛するために血を流すという発想も薄れるだろう。

さらにいうなら、故郷はバーチャル化することも可能で、たとえばバーチャルなエルサレムは、キリスト教とイスラム教のそれぞれに分けて用意すればいいだけだから、血を流す必要もない。

リアルな場所にこだわらなければ解決できることは多い。

その先の世界・・

とはいえ、そういう未来がおいそれとは来ないこともわかっている。ぼくがこうあっさり言えるのは、20代からあちこち移住してきたからで、50歳を過ぎてからいきなり故郷を追われるとなれば話は別だろう。

ただし、百年単位で見れば、世界はさらにモバイル化することはあっても、逆はないだろうから、故郷にこだわる人口は年々減っていくだろう。その先の世界のあり方が、堀江さんや高城さんのような合理主義者には、かなりくっきりと見えているのではないだろうか。

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