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切り捨ててきたもの

かつてテレ朝で『痛快!ビッグダディ』というドキュメンタリー風の番組があったんだけど、知っている人も多いと思う。

いわゆる「大家族もの」と呼ばれるタイプの番組で、7人の子どもを抱えたお父さんが男手ひとつで子育てに奮闘する様子を長期にわたって密着取材したものだ。

こういうのが好きな人はほかにもいろいろと見ているのだろう。いまネットを検索していると「大家族の人気ランキングTOP10!」というページがヒットしたので、ベストテンを選べるほどたくさんあるわけだ。

10位:激闘大家族 細野家
9位:大家族 石井家
8位:沖縄の大家族 玉城家
・・・

と続いて大家族だらけである。そんな中で『痛快!ビッグダディ』が1位かとおもったらそんなことはなくて、2位だった。

1位は日テレの『大家族 石田さんチ』という番組なのだそうで、まったく見たことないけど、でも人気の理由は何となくわかる。1997年から22年にわたって放送された長寿番組なのだそうなので、22年も取材していれば、番組開始時に赤ん坊だった子が結婚したりもする。その成長を見続けている視聴者の側にもそのあいだに山あり谷あり、いろんなことがあっただろう。そこを重ね合わせながら見る大家族番組は、人生の一部といっていいかもしれない。

22年見続けることでえられる味わいは、他のどんなジャンルの番組にもない堪えられない味わいがあるのではないか。それにくらべれば「ビッグダディ」は7年なので健闘しているほうである。

ビッグダディから受けた衝撃

ともかくぼくは「ビッグダディ」から、ひかえめにいって「とてつもない衝撃」を受けたわけなんだけど、これは大家族番組慣れしている人が愛好している味わいとはかなり異なっているはずだ。

あの番組を見て、自分のまったく知らない世界に衝撃を受けた。人生に対する見方を変えられるほどのものだった。

それは、子供の頃にはじめてハリウッド映画を見た時の衝撃に近いものがあった。ハリウッド映画には、当時の日本にはない物質的豊かさがあり、日本人とは異なる倫理観で自由に動き回る若者たちの姿が絵かがれていた。

ハリウッド映画の洗礼を受けていなければ、ぼくは英語屋にはなっておらず、まちがいなくコンピュータの世界に進んでいたはずなので、その意味では人生を変えられてしまったのだが、「ビッグダディ」にもそれに劣らない衝撃を受けている。

ビッグダディが想定していた視聴者は、『大家族 石田さんチ』を見ているような人々のはずだが、通常の大家族番組ファン以外の層に届いてしまった点は画期的だった。作り手も、自分たちの作品が、ぼくのような門外漢の目にどのように映ったのか、想像できていないのではないか。

心のバランス

しかし、どういう衝撃を受けたのかを具体的に言葉にしようと思っても、正直言っていまだによくわからないのである。

こういう生き方もあるのだな・・

という驚きをもってパラレルワールドを眺めていた感覚に近く、これは昭和の映画館で1980年代のハリウッド映画の世界を眺めていた感じと似ている。

とにかく、なにからなにまで、自分の生きてきた世界とは異なっていた。番組がスタートした2006年は、自分がキャリアを捨てて娑婆に出てきた年でもあるので、なおさらそう感じたのだろう。

それで、さらにテレビの話になるのだが、最近NHKのクローズアップ現代で、「きこえますか?子どもの心のSOS コロナ禍のメンタルヘルス」というのを見たのだが、なんとなく「ビッグダディ」から受けた衝撃を彷彿とさせられるものがあったのだ。

番組の内容は、コロナ禍以降、自傷する子や『死にたい』と訴える子などが急増しており、児童精神科のキャパがまったく追いついてないというもの。

つらいことが何もないのに何となくふっと学校に来なくなる、こういう子が増えている。意欲が落ちるとか、無気力になってくるとか、実存的な満足感が感じられない。これは大きな問題だと思います

おとなのように、仕事の悩みだとか、お金の悩みだとか、異性の悩みだとかそういう具体的な問題ではなく、なんだかわからないけど全体的に心のバランスを崩している。とくに不足がありそうに見えないのにいきなり「死にたい」と言い出すような感じなのだそうだ。

「自分の心を殺さない学校、社会にいたい」(10歳)

社会のいったい何がこの子たちの心を殺しているのだろう?残念ながらぼくにはそこのところを感じることができない。でもその悩みを抱えている子たちに取材している映像を見ていると、なんだかこの子たちが

無性にかわいい

と感じられる。だれかちょっと話を聞いてやる環境があったらよかったのかもしれないけど、その「ちょっとの余裕」のない状態がここ3年ほど続いた。

そのしわ寄せが社会の弱いところに蓄積されて、リストカットとか死にたいというかたちで表面化してきたのかもしれない。

その様子が、なんだか「ビッグダディ」の世界と裏表に見えてしまう。林下家には当たり前に存在していた、子どもの心を支える「なにか」が今の社会には欠けているのだろうけど、その「なにか」がたっぷりとあるビッグダディの世界も、その「なにか」が欠けているコロナ禍のこどもをとりまく世界も、どちらもぼくにとっては遠い世界だ。

切り捨ててきたもの

問題の一端は、自分のような人間が、社会で応分の負担を負っていないところにもある。

その「なにか」を与える側にならなければいけなかったのかもしれないけれど、そういうことを顧みることなく目指すところに向かって進んできた。だからといって、いまさら立ち止まることもできない。

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