ゆるこ

自分との会話。誤字脱字の達人。心理と真理と神理。 ヒプノセラピスト。意識探検家。自己開…

ゆるこ

自分との会話。誤字脱字の達人。心理と真理と神理。 ヒプノセラピスト。意識探検家。自己開示お手伝い人。自己探求デザイナー。自己解放コンサルタント。 二元と非二元をただの宇宙人が遊んでいます

最近の記事

“夢”から覚めたら。

ただいまーっと。 いやー、今日っていう“瞬間”は 雨っていうのが降ってる中、電車っていう箱の乗り物に乗って日本の東京って所に“娘役”の仲間と行ってなかなか〜のハードなストーリーだったわー。 そういえば。何気なく見かけたあの人、前にどっかで会った事あるような感じしたけど、、 いつの時代かな? もしかしたら、“星”違うかも。 既視感あったー。 ちょっと共有したい事あったんだよっ。 ねえねえ、これ、なんか懐かしくない? あー、この場面さ、前にもあったんだわ。 その時は“不安”を

    • タイトル未定。

      私たちはひとつ。 「個別化」する事によって この世界を体験できる。 そのために個別になっている。 「私」以外には、今は“なれない”。 詳しく言うと、私以外の“意識”には“今”は、なれない。 でも、元はひとつだ。 “個別”があるから“全体”がある、からである。 “それ”を個別化した「私」が理解する事も思い出す事もできるゲームのような仕組み。 ここはそのゲームの「場」だ。 ひとつの画が、浮かぶ。 この体も、自分だけが出入りしてるわけじゃないかもしれない。 私は、「私」しか知覚

      • 非二元の先にあるもの。

        顕在意識と潜在意識を二元的に観ていく中で、この2つも「非二元」的に眺める場所がある。 それは「全てはただ起こっている」というスペースだ。 顕在意識と潜在意識が「和合」するところでもあり、実は両方とも打ち消されて無くなるところであるとも言える。「陰」と「陽」のバランスが取られた「太極」とかのところ、それがよく言う、今ここ、とかワンネスとか、全てが「ただ在る」という場所。 昔、いわゆる“一瞥体験”というものが起こった事がある。それは買い物に行く車の運転中に突然起こった。 バック

        • 「無意識」てなんなーん。

          この「無意識」については、いろいろな見方、姿勢があると思う。 意識が「存在している何か」であれば、無意識は「存在していない何か」になり、『存在していない』のに『何か』であるという、奇妙でわがままな言い回しになる。 でもそこがミソで、意識が『在る』という事が同時に、意識が『無い』状態を産み、この、意識が無いという「領域」が《在る》という事、それが「無意識」であると主張している。 宇宙の向こう側には何があるのか、という問いに対して、宇宙が「在る」から、反対は何も「無い」のだけど、

        “夢”から覚めたら。

          意識ってなんなん。

          私が「意識」というものに興味が芽生えたのは確か小学4年生くらいだったと思う。 ずっと考えてた。 なんだろなー、この感覚。 いつも気付けば居る、というか戻る、というか。 考えてる私。感じてる私。ぼーっとしている私。いろんな私がいるけれど、いつも共にしているこの感覚はなんなんだろーて。 て、いつの間にか忙しくなり今に至る(笑) 面白い事に精子と卵子が結合した瞬間からこの意識もしっかり宿りはっきり「在る」という。 今こうしてビールを飲んでる私が、今を感じているこの「感覚」が、細胞

          意識ってなんなん。

          ことば

          形あるものと、そうじゃないものの間 物質と非物質、世界と自己を繋ぐもの 「逆」から眺めると 隔てているものでもある 人もまた同じだ 生まれた時は皆エネルギー 元々一つだった「源」から ことばを介して徐々に「私」を物語っていく 「源」から流れてくることば。 「私」という者が語りかけてくることば。 繋ぐものであり分け隔てているもの 全ては流れゆく 愛しいことば達と、今日も戯れる

          ストーリー

          日常に転がってる。 自分の要素は生活の中に現れてる。 朝起きて、「私」を確認し、今日も「私」が始まる。 世の中は、いつもの様に混沌としているのかもしれないし していないかもしれない。 どうであっても良い。 無秩序に良くまとまっている、というような魅力的で意味のない世界。 私は、私の世界を今日も迎え入れる。 それぞれのストーリー。

          ストーリー