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無数の個に向けて

「なぜ僕は写真を撮っているのか?その1」を読んだ。
ninoさんの、写真に向き合う文章を読むたびに…自分の中のふわふわしていた感覚がまとまりを持ち始めるようだ。

「あなたはなぜ写真を撮っているのですか?」

根源的な質問。当たり前すぎて改めては向き合ってこなかったような、そんな問いに。あなたなら、なんと答えるだろうか?


自分の場合は、常々言っていることだけど「絵が描けないから、写真を撮っている」のだと思う。思うように絵が描けて、イメージ通りに彩色ができたなら。もしかしたら、写真を撮る必要はなかったかもしれない。

自分にとっては写真は唯一無二ではなく、単なる手段の1つなのだ。

そこから、さらに一歩踏み込むならば。何かをインプットしたなら、そこから生まれた化学反応をとにかくアウトプットしたい…という衝動が本能のように備わっているタイプなのかもしれない。

インプットされたものを自分というフィルターを通して吐き出す、それはまるで生きるに等しい行為で。この世界がどう見えているか、伝える術でもある。時に言葉で、時に写真で。息をするように自然に、自分にとって世界がどういうものかをアウトプットし続けている。

感覚的な言葉で表現するならば。

感じたものを抱えたままではいられなくて。かといって、抱えたままに記憶の波に攫われるのも惜しまれて。 だから 生の欠片をひとつひとつ目に見える形にしては、道しるべのように置いていき。時折それらを手に取って、今と過去では形や手触りがどう違うのかを確かめたい。

そういう欲求がある。そして、それに素直に従っているだけだ。


では、それらをわざわざ公開するのはなぜか?
なぜ自分だけの宝箱に、大切に仕舞っておかないのか?

それは、こういう考えが自分の中に根付いているからだ。
人の想いというのは、ささやかな連鎖を起こす。

写真、小説、音楽、かけられた言葉、行動…
これまでに手に取ってきた他人の欠片は、少しずつ自分の色を変化させている。ならばそれと同じように…自分の残してきた欠片も、誰かの色を微かに変化させるかもしれないではないか。

それを信じているから、今もこうして欠片を置きながら歩き続けている。
無数の個に向けて。

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<蛇足>
偉大なる小説、著名な作家…
そんな大層な肩書きなんてなくとも、思いの詰まった言葉って何かしら響くものがある…とnoteを読んでいて常々思います。

そして、それらは目に見えない糧となって降り積もり…
私という人間の一部になっていて。

こういう熱量のある言葉を紡ぐ人々から受け取った形のない何か、それはたしかに自分の中に響いて。元の色合いを僅かにでも変えている…そんな風に思います。

でもきっと、そんな読み手が居ることは。言葉にして伝えない限り書き手には伝わらないでしょう。だから「無数の個に向けて」なのです。


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