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話し言葉と書き言葉のギャップ

昔から話す時は推敲ゼロ、わりと脳味噌からノータイムな喋り方をする。頭の中でではなく、アウトプットしながら同時に思考していくタイプなのだ。

そのせいか思考の部分を補わずに1・2・3・4・5ではなく1・3・5のような説明不足な話し方になったりすることが若い頃にはよくあったし、思考と口がスムーズに連動してくれなかったりしてたびたび噛む。(だから最近フィギュアスケートのゲスト解説で高橋君を見ると、非常に親近感を覚える。彼も時々口が回っていない。)

それが書く時にはどうしたことだろう。

会話よりスピード感が落ちるので理性の働く余地があるせいか、喋っている時よりも随分とましな文章になる。書くのもお喋りするのも自分にとって感覚的にはよく似た作業ではあるのだけれど、アウトプットされたものはどうやら全く似ていないらしい。

さらにnoteだと読みやすさを意識しているせいか、わりと硬めの文章になっている。たぶんこの文章から人柄を想像されたら、本人と全く違うイメージになりそうだ。真面目ぶった口調で書いてはいるけれど、書く時は働いているこの理性が喋っている時にはほぼ仕事をしていないのだから…。
 

そうだ、広島弁にもギャップを感じるかもしれない。

自覚は無いのだけれど…同じ広島の人間からも「訛りが濃い」と、なぜだかよく言われる。広島人なので、息をするように「じゃ」が文章の中に入り込むのは当然として。生まれと育ちが広島市内ではなく、仁義なき…の舞台にもなった呉市のせいか。普通の人よりもさらに言葉が訛って聞こえるらしい。

「ほうじゃろうてと思いましたよ!」と自然に口にしたら、会話を止められ「ほうじゃろうて…?私より若いのに…」と見つめられたこともあった。みんな使わないのだろうか、ほうじゃろうて…。
 

しかし普段は"じゃ"まみれになっているとしても、書く時に広島弁は使わない。気軽につぶやくTwitterでは、時々うっかり"じゃ"が忍び込むこともあるけれど…noteではきちんとした文章を意識しているせいか、"じゃ"の入り込む余地はないのだ。丁寧な言葉と"じゃ"は相性が悪い。

ただ、方言については多くの人がそうだろう。誰もに読まれる可能性のある場所であれば、書き言葉から出来る限り方言は排除しているはずだ。ということは、普段読ませて頂いているあの方もこの方も…話す言葉を聞いたら、印象が変わって意外に思うのかもしれない。

もしもそんな機会があったら、面白いだろうな。

 


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写真は内容に全く関係ないけれど、「みんなで同じ部屋に集まろう…」と呼びに来た犬。ドアの隙間から顔を出して「気づいて…」というオーラを出して、こちらが近寄るとたたっと駆けだして。途中で止まって「ついてきてる?」と振り返っては、また駆けだして。畳の部屋に家族全員を集めたい、という欲求があるらしい。かわいい。非言語コミュニケーション、最高。

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