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【実況する美術鑑賞#59】ゴーギャン「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」【60分で1記事】

*4/12 ルール変えました。
 ただじっくり見て思ったことを書きます。

・作品を鑑賞しながら実況し、文字起こしする。
・話すことがなくなるまで実況する。
・作品に接近し、そして離れてゆく意識をする。

*今回からはさらに意識的に見方を変えようと思っています。最初に作品のことを分析していくような視点で鑑賞しながら、徐々にそのベクトルを自分自身のほうに向けていったり、創造をするようなところに入って、最後にそれを外側の世界へ向けていくみたいな、3段階のレイヤーを意識して見ていこうと思います


まず自分がこの絵に対して知っている事は、ゴーギャンが描いた絵で、タヒチだったか、南国の島へ行って生活をしながら描いた作品で、「我々ははどこから来てどこへ行くのか」と言う感じの、作家の集大成的な絵だったんじゃないかなって思います。かなり大きな絵だったかなと。

横長の画面で巻物のようにも見えるので、左右どちらかに時間の流れがあったりするのかなと思ったりもしましたが、見ているとあまりそういうわけでもなく、全体的に要素がちりばめられていて、いろんな場面がコラージュのように重なって描かれているのかなあと思いました。

女性がたくさん描かれていて、真ん中の人は乳房があまり大きくないので、男性かもしれませんが、幼女だったりするのかなとも思います。左上のほうに人間ではない仏像というか、何か神様的な像が見えますが、これも女性のように見えます。顔の比率がかなり他の人たちよりも大きくて、創作物のような感じがありますね。

画面には青と黄色がたくさん使われていますね。青と緑、それから黄色がかったオレンジ、茶色が全体を覆っています。描かれている木はかなり曲がりくねっていて、あまり日本とかでは見たことないような木なのか、本当にこんな形なのか、かなり抽象化して描いたのかなと思います。


画面左右の上端には金箔で描かれたような部分があって、そこに文字も描かれていますね。英語では無いようです。それから仏像の左下にあるすごく小さな人間の像みたいなのがありますが、これもちょっと気になりますね。胎児のような・・でも、これも成人女性のようにも見えます。

後は、動物たち。カモやヤギ、犬のようなものも見えて、猫もいますね。猫は2匹描かれています。人物は皆さん腰巻をつけていたり、簡単な服を着ていたり、非常に簡素な姿で生活しています。ブレスレットみたいなのをつけてる人も1人だけで、ほとんど装飾品もないですね。そういう目で見ると、神の像みたいなものは首飾りだったり、耳飾りだったり、髪飾り、ブレスレットもつけていて、周りの人に比べるといろいろ豪華な装飾品をつけています。

人々の形も写実的と言うよりは、イメージ先行のような感じで、人体を部分部分で見るとちょっと間延びしていたり、象のような太い手足をしてたりとか、ゴツめの背中をしていますね。作者の目には、ここで生活する人たちが、そういう風に感じられたのでしょうか。

右側の奥のほうに2人ローブを着た女性のような人物がいますが、片手を上げているのがちょっとポーズ的に宗教的なものを感じさせますね。この神的な像があるっていうことからも、ちょっと神話みたいなもの、そんなものを感じるような気もしますね。抽象化された画面からもそう感じます。

中央のを実をとっているような人物が1番目立ってきますが、これも何かそういう‥例えば禁断の果実なのか、そういうものをとっている人にも見えてきます。それから前列にいる人たちは、多くの人がこちらを見ているのが少し気になりますね。ジロジロ見られているような。作者自身がこの島に行って、こういう目線でいろいろ見られていたのかなあなんて言うふうなことを感じました。


地面の感じがすごく曖昧で、どういう場所なのかがあまりわからないんですが、赤ちゃんが寝ている右の下の方なんかは岩の上なのかなぁ。もしくは水溜まりのようにも見えますし、全体的に地面は湿気を感じるというか、じめじめしたような、そんな風に見えます。

ただ左のほうの白い地面は雪だったりとか、もしくは水面に反射している木の影があるのかなとか、そういう風にも見えますね。これが水面だとしたら、すごく日差しの強い場面だったんじゃないかなとも思いますが、全体的には画面が暗い色なので、あまり日差しが強くないようにも見えたり、人物の濃い黄色があるところなんかは、逆に光がすごく当たっていそうだったりとか、金箔の使われているところも光を感じるので、やはりそういういろんな場面が画面全体で混ざっていたりするのかなと思います。

作者のことを考えると、この島の生活が描かれているようなんですけれども、男性の姿が見えなくて、女性が中心に目に入ってきているので、本当にこの社会が女性中心の社会なのかもしれませんし、作者の興味があったのが、その中で生きる女性たちの姿だったのかなとも思います。

左手の奥のほうにあるのは川なのか、もしくは海で向こうに島が見えているのか、もしくはとても大きな湖で向こうの山が見えているのか。そのさらに奥には青空が広がっていて、向こうの方はすごく天気が良さそうな気がしますね

こちらをじっと見ている人たちには、なんとなく人間味がありますが、実をとっている中央の人は彫刻のような顔で、人間っぽく見えないですね。これも何か1つの銅像なのか、彫刻のような、そんな風にも見えてきます。そういう目で見ると、周りの人たちも動きみたいなものはあまり大きく感じないので、画面全体で静的な、静かな印象がありますね。あまり音とかも聞こえないような。

動物たちもいるんですが、皆休んでいたりとか毛づくろいをしていたり、そういう感じがするので、活発に走り回ったりみたいなそういう雰囲気は感じられないですね。南国のイメージではあるんですが、活発でリズムのあるようなイメージと言うよりは、ジメッとして停滞しているような、そんなふうに感じられます。

何かこの状況に物語みたいなつながりを持たせるのであれば‥なんでしょうね。皆さん何をしているのかなぁ。あまり全体的な関連性を感じないですよね。みんなやっていることが、やっぱりバラバラのような、いろんな場面をつなぎ合わせて、1つの絵にまとめたような、そんな気がしますね。

そういう意味でやはり屏風絵とか、そういう概念的なイメージを1つの画面の中に入れ込んだ表現なのかなって言うふうに思います。写真のように、ある場面を切り取ったと言うよりは、描いてあるものの、形や色のリズムで、画面自体が構成されているとおもいます。

画面半分から上の世界は、絵本のようなおとぎ話のような、そういう形にも見えてきます。生活感がより手前の人たちよりもないというか、何かうっそうとした森の中をさまよっていたりとか、そういう雰囲気が少し物語的に感じますが、前列の人たちに、普段あまり自分たちの周りにない特殊な生活感があるので、そこがすごく分かれて変な感じだなって思います。

地面の感じがよくわからないので、この右端にいる犬みたいな動物が寝そべってるのか、こちらの画面に飛び込んできてるのかよくわからないっていうのがありますね。体が地面についているのか、宙を浮いているのかっていうのが。人物の横についている影の形も曖昧なので、光の方向もバラバラなような気がします。中心にいる人の右にいる片手を挙げている人の顔なんかは、もう背景に溶け出しているようなそういう変な感じもあります。もしかしたら、季節とかも画面の中で混じり合っているのかもしれないですね。

少し画面から離れて見てみると、画面の真ん中を大きな川のようなものが流れているようにも見えてきました。さっきまでは前景と後景の2つのレイヤーに分かれているのかなと思ってたんですが、もう1個真ん中に川のような層があるようにも見えてきました。

前景はこちらを眺めている人とか、すごく生活感のある人物とか動物たちがいる風景。真ん中は服を着た人たちや、前景と違う種類の人間がいる風景があって、その奥にほぼ自然だけの風景があって、それを全部貫いているのが真ん中の人物かなぁと思いました。真ん中の人物も1番上に持ってるのは、実というか、自然物っていう感じですね。


画面上部の左右両端で金色との境目の線が、大きな山の稜線にも見えてきて、大きな山の麓を切り取った画面のようにも見えてきたかなぁ。それはきっと真ん中の人の体制が上へ向かわせるような、そういう視点を誘導してるようにも見えてきます。

さっきの川のイメージで行くと、左奥から右手前に、水というか画面が流れているようにも見えてきました。巻物のような時間がの流れがあるようには見えないと最初思いましたが、何か端々に感じる宗教的なものとか、この自分が感じる異国感みたいなところから言うと、全く自分の知らない文化の神話だと、イメージを見せられてもその場面の前後が全然わからなかったりするので、もしかしたらそういう形で、この島なのか国に伝わる神話の様子が、例えば左から右のほうに展開されているような気もしてきました。そういう背景がわかる人が見れば、特定の神話だったり、伝説みたいなものがわかるのかもしれないなぁと。でも、そう思うと左にいる1番老齢の人から赤ちゃんに向かっているって言うような流れですけれど、そこはどうなんでしょうね?

今少し解説を読んだんですが、やはり神話的なモチーフがあるということと、後は右から左へ人生というか物語というか、画面の流れがあるみたいですね。赤ちゃんから始まって老人で終わっていくと言うような流れ。よく考えたらこのタイトルの「我々はどこから来て〜どこへ行くか」っていうのもそういう流れを感じさせるものだったなと今改めて思いました。

真ん中の人がとっている実も、知恵の実って言うような言及もあったので、端々に感じた宗教的なものっていうのはそういう部分も関連しているんだなぁと思いました。作者はこの絵を描いた後に自殺をしようとしたみたいなところも含めて、思い詰めた気持ちで描いたようですが、そこはそう言われるとそうなのかなと言うような形で、画面だけでそれが伝わってくるっていう感じではなかったですね。絶望というよりは、もう少し超越した気持ちというか、そんな風に感じました。

ブラックジャックって言う手塚治虫の漫画の中で、この絵とゴーギャンをモチーフにした話があったのを思い出しましたね。ゴ・ギャンって言う画家が原爆のような放射能的な被害を受けて、その悲惨さを死ぬ間際まで描く。病を一旦ブラックジャックに直してもらうんだけれども、そのことで創作意欲が薄れてしまい、逆に病が再発したことでやる気が湧き起こって、絵を描き上げて死んだみたいな、そういう話っていうの覚えてますね。「描くんだ!ゴ・ギャン!」って自分で自分を鼓舞しながら、死の間際まで画面に向かっている姿とかはすごく印象残ってるんですが、この絵自体に、きっとそういったイメージや逸話があるのかと思いました。

例えばこの絵からそういう流れとかを感じられなかったという部分で、自分だったらもう少しそ展開をわかりやすく画面の中に配置するんじゃないかって思ったりしたんですね。この神様的な像をもっと中央において、宗教的な感じを強く出すとか。それに対してこの絵は描きながら考えていったというか、そういうライブ感みたいなものがもしかしたらあるのかもなって思いました。最初からしっかり構図を考えて描いた部分と、描きながらその流れで描いていった両方が混ざっているような、そういうものがあるのかもなって。

画面に向かっていきながらその流れで配置されていた部分と、おそらく同じモチーフをもう今まで何度も描いてきて、自分の引き出しにあるものも自然にこう出てきて、既に準備されているものと、そこに向かう今の時間の中で生まれてくるものが混ざりながら描かれているような、そんなふうにも見えてきました。

鑑賞:19分


たまたま手元にブラックジャックもあったので、「絵が死んでいる」と言う件の話を読んでみました。実際にゴーギャンはこの絵を描いてからどのぐらいで亡くなったのかというのはわからないですが、死の際まで何かをなすと言うのは、もしかしたらなかなか難しいことで、それだけで幸せなことなのかもしれないなと思いました。

特に最近はいろいろな治療もできるので、身の回りでなくなっていった人の最後のことを考えると、最後まで自分の意識を持って何かをすると言うのはかなり稀な状態なのかもしれません。一昨年亡くなったペットの猫は、根本的な延命をせずに旅立ちましたが、最後まで意思を持って生きていたように思います。

体が動かなくなっても自分のなせることをなすという意味では、今自分が取り組んでいる鑑賞、何かと出会って、それについて考えることが、もしかしたら自分のできる最後の行いなのかもなと言うふうに感じました。

あなたにはどう見えましたか?
また次回!


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